昨日の続きで少し詳しく書評を書きます。
本書は理論や原理で語る本ではなく、現場の熱意と思い入れから語られる一冊だと評価できます。
探究を通じて目指すもの
探究は多くの高校の先生にとって決して手放しで歓迎されているものではない。
そもそも「なぜ探究のような面倒なことをやるのか」ということについてもなかなかコンセンサスが得られておらず、重荷として捉えられている場合が多い。
そういう重荷として感じている状況で「社会が変わるから探究をやれ」と言われてもなかなか納得しにくいだろう。
探究の話をするときに「社会が変わるから」って話は個人的にはあまり魅力はない。明日の天気が悪いから傘を持って行こうと言われてワクワクしないのと同じ。シンプルにその学びの何が楽しいのかを力説された方が共感できる気がする。外圧を理由にしたらそれは義務にしかならんのよ。
— ロカルノ (@s_locarno) 2023年2月11日
もちろん、探究は「社会が変わるから必要になる」という文脈はある(本書でもその点はしつこいくらいに書かれている。その点については個人的にはややしつこい感じもする)。
しかし、本書は単に「社会が変わるから」ということを理由に探究を目指してはいない。「社会が変わるから」ではなく「社会を変えるから」という視点だ。
…生徒にとって自分からの発信ということは何かを進めるときの大きな原動力です。生徒たちは探究的な学びによって自分の可能性に気づき、結果的に社会を変え、次の社会を作っていきます。まさに生産者として、高校生が社会を創っていくのです。
(P.27)
意外と読み飛ばしてしまいそうな一行であるが、「社会は変えられる」という感覚を高校の間に育てることには大きな意義があるだろう。
自分の行動が自分の所属しているコミュニティに影響を与えられるという実感を持てるかは、学校生活の中で実感できなければ、その後どこかで身につけるのは難しいように思う。
探究学習は「自分で決めて自分で行動して、その行動の影響を実感する」ということに意義がある。だからこそ、探究の説明のときには必ず螺旋的に学びが繰り返されていることが説明されるのだろう。自分の行動の影響を実感し、さらに学びを続けていく……。
逆に言えば、「何をやっても別に変わらない」という思いを抱くことになったら、探究はその時点で行き詰まってしまう。
探究も、探究することが目的になってしまうと、形骸化した教育活動だけが増えてしまいかねません。だからこそ、まずはWHYが大事なのです。HOWではなくWHY。これはHOWに流されやすい学校だからこそ、大切にすべきことです。
(P.43)
本書では「出会い」という言葉を繰り返し用いている。自分で求めて自分の課題と「出会う」ということ。そういうことの価値を重視し、そのための道のりを述べているのが本書である。
教員のマインドセットを変えていく
上述の通り、本書は「HOWではなくWHY」を変えていくための本である。そのため、本書では繰り返し「教員のマインドセット」についてのアドバイスが述べられる。
教員の協働は目的ではなく結果でしかないのです。そしてその本質は、目の前の生徒を考えた教員の思いや取り組みなのです。
(P.85)
たとえば「もっと単位数を増やしてほしい」「学校として決めてほしい」「指導する際に必要なものをすべて準備してほしい」などの発言ばかりする教員は、残念ながらお客様そのものです。
一方、与えられた条件での最適解を考えて実践している教員、自ら決断して実行している教員、必要なものを自ら探す教員は生産者の教員でしょう。(中略)ただ、「自分はよりよい教育を探究しているだろうか」という問いを常に自分に投げかけることは重要です。
(P.112)
まあ…こういう言葉は自分に余裕がないときには辛辣に響く。
探究を支えるのは教員自身の探究である。だから教員に余裕がなければよい探究は生まれにくい。ただ、残念ながら余裕のある現場を待っていてもいつまでもその日はやってこないだろう。
自分が探究して最適解を探す教員になれるか。本書はそういうマインドの変化を促している。
だから、本書は全体を通じて書きぶりは軽やかで明るい。学びの楽しさ、喜びに誘い出すようなそういうモチベーションを感じる。そういう熱量に共感できるときにはよい出会いとなる一冊だろう。
ただ、逆に言えば気持ちに余裕がないときには、結構、きつい本でもあると思う。
自分の置かれている状況を判別するような、リトマス紙のような一冊になっているかもしれない。