一年の授業が終わる。一回一回の授業が短く、あれもこれもやりたくなる時期である。
選択させられない日々
強制力を持って、現代文なら現代文をやらせることが出来るのは学校のメリットではある。必要なことは必要だとやらせなければいけないし、不自然なことをやらなければいけないのが勉強というものである。
でも、その不自然の中にも、生徒の中にいくらでも選択する機会は作れる。
これはよい本ですね。
「選択肢」を生徒に持たせることが出来るだけでも、先生も生徒もずいぶん精神的には楽になるモノである。
ちょうどこんな記事を読んだ。
そうだよなって思うのである。高校生だってこういう感覚にはたどり着かないのに、このくらいの年代でこうもはっきりと自分で言葉にして理解できるのだから、普段接しているものが全然違うんだろうなと思う。
高校生がここまでたどり着いてくれたら嬉しいのだけど、なかなか「あれもだめ」「これもだめ」「提案なんて要らないから黙って聞いていろ」では、こういうことにはならないのだろうな……。
せめて決めて欲しい
色々なものが決められていて、自分で決めなくても時間割で生活できてしまうのが学校生活である。
勉強の仕方や何を学びたいのかまで考えないで済むのである。考えなくてもしっかりと一定の成果が出るのだから、学校の教育は洗練されていると思うのである。
とはいえだ、自分で決める瞬間がないことを当たり前にしておくのもどうかと思うのである。
まあ……横並びにならなければいけない部分も大いにあるのが学校だし、自分勝手にやってしまうのもあまり良くはない。
だから、自分の授業としてはどういう道具を使って勉強するかは生徒に任せるし、話合いの段取りは指導するけど、実際の話合いの展開に強く干渉することはない。もし、その授業で上手く成果が上げられないのであれば、それはそれで仕方ないだろうと割り切り、それでいいの?と言い続けるしかないだろうと思っている。
自分の授業の終わりはあいさつはしない。生徒からアンケートで「あいさつをしてほしい」と言われても、これはおそらくこの先もあいさつを入れないと思うのである。
基本的に話したり書いたりしている状態で授業が終わるような展開になっているので、そういう活動をしているものを自分が強制的に号令をかけてあいさつして終わらせるのはちょっと暴力的だろうと思うのである。
自分がいつまで学ぶか、どのくらい集中してやるか、どのくらい夢中になるかってことは自分で決めれば良いのであるし、そういうことを自分で決めなければいけないのである。
何となく、ずっと気になって、チャイムに中断されても活動を続けたいと思うような、そういうものを投げかけて行きたいのである。