色々な調整を行なっている時期ですが、使っている言語が噛み合わないというタイミングが何度もやってくる。
普段の積み重ねとは、こういう時に露呈する。
色々なところで…
先月の雑誌を読みきっていなかったのでパラパラと眺めるなど。
これを読んでいると、ある記事に対し「あぁ…まだこの認識と知識なのね……」とゲンナリ。
もう、様々に面倒なので言及することもしないし、批判を書くこともしないけど、いい加減、新井紀子氏の個人的な思い込みに基づく発言が国語科教育の総意であるような雑な論の立て方で高校の国語科教育をどうこうしようということにはうんざりです。
しかし、この手のすれ違いが結局職場でも起こっているわけで、見ず知らずの遠い人が好き勝手なことを言っているならともかく、職場で意見や考えていることにズレがある場合は、しっかりとその認識の齟齬を埋めていかなければいけない。
観点別評価ひとつをとっても「考査の点数で決めればいいでしょう?」という声が各地から聞こえてきているので、なかなか色々なことが難しい状況である。
授業の改善は押し付けではない
学習指導要領が細部までかなり指示が書かれているように見えるので(実際、かなり細かく書かれているようになっているけど)、授業まで指図されているように感じて反発している人も少なからずいるようだし、逆に何でもかんでも一律に同じことをしなければいけないというベクトルで話を進めようとする人もいて、ぜんぜん、見ているものが違っているという現実がある。
受験で点数が取れれば何しても良いという暴論で良いと思っているケースも見るし、そういう考えに対して生徒の成長を見たいと思っていると致命的に意見が噛み合わない。
根本的に求められているのは生徒をあれこれと操作しようとするのではなく、授業の改善である。
そしてその授業の改善についても特定の方法を一律でやれではなく、きちんと生徒の学びの様子を見とって必要なことを評価して必要な手立てを考えていくという話である。
高校の国語科について言えば、科目編成がかなり厳しいものになっているのだけど…。
好きなことを教えていい、という仕事ではない以上は、平板にならないように、上滑りにならないように、今の世の中を生きていくために必要な言葉の力をちゃんと考えて、周りから期待される力を責任もって育てたいとは思うのである。
要請されることをきちんと答えつつ、それでいて浅薄なところに止まらないための方法を考え続けなければいけないのである。