ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

さよならだけが人生ならば

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卒業式で無事、生徒を送り出す。心残りの後悔も数多く残しているが、健康のうちに卒業できるだけでも幸せなのだ。

杯は交わせないけど

于武陵の有名な「勧酒」という有名な漢詩がある。

勧 君 金 屈 卮


満 酌 不 須 辞


花 発 多 風 雨


人 生 足 別 離

この漢詩がなぜ有名なのかといえば、井伏鱒二の有名な訳があるからだ。

コノサカヅキヲ受ケテクレ

から始まり

「サヨナラ」ダケガ人生ダ

で終わる有名な訳である。

この「「サヨナラ」ダケガ人生ダ」という言葉の鮮烈な印象のおかげで、自分は卒業式のシーズンには必ず思い出す一節なのだ。

まあ、この最後の一節も好きなのは間違いないのだが、一行目の「コノサカヅキヲ受ケテクレ」という別れを惜しんで引き留めようとする名残惜しい気持ちがにじみ出る行動の描写も好きなのだ。

高校の教え子たちが大人になるまでの時間はそう遠くない。だから、せめてあと少しだけでも手元にいてくれれば、一緒に酒でも飲んで別れを惜しむようなやりかたもあるのに、そういう訳にもいかないのだ。

教え子たちとしみじみと飲むのもよいものだ。十年も教員をやっていると、そういう機会を何度も得られているので、きっと今、送り出す生徒達ともいつかは一緒に過ごせる時が来るのではないかと思う。

でも、今の別れが名残惜しいのだ。だから、何かを渡したくもなる。そういう引き留めるようなことはあまりよくないと思うけどね。

だからこそ「「サヨナラ」ダケガ人生ダ」と鮮烈に別れてしまうべきのように思う。

「また」や「いずれ」は運がよくなければやってこない。ただ「さよなら」だけは目の前で起こった、本当に確かなことなのだ。その手触りや実感がなくても、やがて寂寥感がこみ上げてきて、その時に、「また」の儚さを思い知るのだ。

さよならだけが人生ならば

この井伏鱒二の漢詩には有名な返答になる詩がある。それが寺山修司の「幸福が遠すぎたら」という詩がある。

さよならだけが 人生ならば

また来る春は何だろう 

から始まり、人生の憧憬の場面を切り取ったような詩だと思う。

サヨナラと割り切れない未練が、この詩を思い出させて、自分を離さないように感じる。

また春はくるのだ。教員という仕事の宿命で、サヨナラをくり返し、新しい出会いを始める。それは普通の職場よりも何倍も早く。

それでも、今はいつまでも名残惜しい気がするのだ。

さよならだけが 人生ならば
めぐり会う日は 何だろう

あと何度、こういう寂寥感を味わいながら仕事を続けるのだろう?

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