今月の『教育科学国語教育』はNG特集。
巻頭特集で土居先生も言っているが、授業の「正解」はなかなか判断が難しいが確実に「不正解」は存在している。
でも、不正解を避けるばかりに意識が行っていると授業が非常に平板でつまらないものになる。
授業を練る過程
「不正解」だらけの授業づくりの過程。
注意深く自分の授業で「不正解」を行わないようにしたいと授業を構想するのだが、あれもやらない、これもやらないと消極的になってしまうと、授業の冒険の余地が減っていく。
「不正解」を避ける安パイの寄せ集めが大きな「不正解」になる。
授業が上手くいくかどうかは、その時々の様々な要素が影響する。子どもたちの生活が外的な要因で落ち着かない時期であれば、どれだけ魅力的な素材を授業で準備してきても、上手く受け止められることは難しい。
授業づくりは、授業が始まるその日が来るまでひたすらに試行錯誤をして、自分だけの「正解」探しをしつつ、「不正解」を退ける作業でもある。
でも、授業が安定的にできるようになってくると、失敗しても良いから…と思えるような挑戦的な単元をつくる元気が無くなってくる感じもある。
授業の失敗を経験して、どうすれば失敗するのかが見えすぎてくるし、失敗しないための安パイも見える。そういう自分の状態があるならば、平均点が高い授業をした方が子どもたちのためになるような気もしてくるのだ。
授業者は最後はひとり
授業に至るまでに様々な過程で試行錯誤を経て、授業の本番を迎える。最近はチームティーチングという方法もある訳だが、基本的に授業を始める時には授業者は一人なのである。
準備してもしたりないような教室でのハプニングに向き合うのは、その場で教壇に立っている一人だ。
不正解を選ばないように懸命に準備してきた授業案も、授業当日に起こる様々な出来事に対しては無力であるし、考えてきたことを超えた事態に対してその場で決断をして授業を進めるのは授業者ひとりである。
誰にも責を負わせることはできず、自分で授業のよしあしは引き受けなければならないのだ。
自分の教室には自分が責任を負う。
そういう一対一の逃げ場のない緊張感がある。
授業はひとりではない
しかし、授業はひとりではない。
授業をつくる過程で、ある素材を見極め、授業へと仕立てるときには多くの先達たちの授業を参考にしてつくるものである。
参考文献などを用いないとしても、自分がこれまでに経験してきた様々なことを使って授業を作っているのである。
先人たちの残してきた大いなる財産を十分に活かしながら授業に向き合えることは、やはり大変心強い。
自分の授業の中に様々な価値観や考えが入り込む。明示的にも潜在的にも。
自分の授業がどのような層の中に入り込んで成り立っているのかが見えてくるようになるくらいに、やっと授業に余裕が持てるようになるのだろうな。