本日から平常運転するのが精神的に嫌な気分なので、少しでも授業に気持ちを向けるために色々な授業記録を読み出した。
論理ばかりを読むわけでもない
授業の実践記録といっても、様々な種類がある。それこそ本格的な学会誌に掲載されるような先行研究からしっかりと理論が固められているような実践もあれば、ローカルな勉強会で実践者の教室に対する思いを吐露するように書かれる実践報告もある。
どちらが優れているという訳でもない。
理屈をしっかりと固めることで、再現性や根拠のある実践として全体の質が上がっていくという場合もあるだろうし、実践者の思いが丁寧に詳述されることで再現性はなくても実践の深みや人間を相手にすることの面白さを感じられるような場合もある。
前者の実践記録は読み解くことで自分の授業の手札を増やしていけるような感覚があるし、後者の論文は授業者としての自分の立ち位置を振り返るきっかけとして非常に有効である。
好みでいうのであれば、後者の実践を読む方が心は躍る。魅力的に見えるとも言える。
自分の教室で同じような実践をするのかと言われると、おそらくやらないのだが、自分の実践の弱いところや強みが見えてくるので、あたかも授業について語り合ったような気分になる。
論理で書かれた実践記録を読むことの方が本来はしっかりと力をつけるのには理屈と格闘することも必要なのだが、どうしてもチャーミングなのは思いの丈を述べるような実践である。
自分はどうやって授業と向き合っているのだろうという自覚につながるのである。
授業の記録を書くことをサボらない
記録は日々、書いておかないと後から思い出して書くことはできない。
その場その場で感じたことや見たものや反応したことや反応の仕方は記録しないと忘れていくばかりである。
断片のように書き連ねたものにどれほどの意味があるか。
それは、書き続けて量が溜まってきたときにやっと何となく見えるものである。我慢強く書き続けて、自分という授業者を知ろうとすることが大切なのだ。