教員の仕事は幅が広い。
授業だけに集中しているかと言えば、担任する生徒のメンタルケアをすることもあれば、教室整備の雑用のようなことをすることもある。
そのいずれの仕事についても、70点くらいではトラブルが起きて、85点くらいは安定して取れていないと上手く行かない感覚がある。
エッセンシャルにはいかない
ビジネス界の定番の「エッセンシャル思考」は、確かに合理的である。
自分の本当に集中すべき仕事に集中することが、短時間で成果を上げるにはシンプルだけど強力に効果がある。
教員の仕事のエッセンシャルなものとは何だろうと考えると、まあ…「授業」になるのだろうけど、実際問題として「授業」以外をアウトソーシングしたり軽く扱ったりしたら、学校の中としてはグチャグチャになるだろうな、と思う。
それだけ学校の抱え込んでいる仕事は多岐にわたるし、複雑になってしまっている。
「授業」に集中しないで「学力」の保障が出来るのか?それは神のみぞ知る…。「学力」をどう定義するのかにもよるけどね。
自戒を込めて言うが、自分がやらなかった仕事は結局誰かが抱えている。学校の仕事の総量は減らないのだから、自分が仕事を選んで問題が起こらないとすれば、それは周りが何も言わずに仕事を巻き取ってくれているからである。尊大になったらいけない。
唾棄すべき不合理さである。しかし、子どもに関わる時間が長いからこそ見えてくる部分もあるし、裏方の仕事をすることで学校を支える要素に気づく部分もある。問題はきちんと仕事が整頓されている訳ではないので仕事ができる人のところに仕事が渋滞しがちということである…。
そこにいるという仕事
教員の仕事を振り返るに、「なんとなくそこにいる」ということが大切であると感じる。
授業の時も、ホームルームの時も、放課後も、部活の時も、なんとなく必要な時に誰かがいるということが必要なのだと思う。
そして、それでいて気配や存在感は小さいほどよい。普段は自分たちだけで生活していながら、何かあれば呼び出せる。そのくらいの存在でよいのだ。
教員という仕事を考えると、環境を作る仕事というよりは、環境そのものであるという意識で良いのではないか。
何も過剰に盛り付けず、何も引き算せず。
自然と必要な時期に必要なことを後押しすれば、それが力みのない仕事の仕方ではないか。