生徒と面談をする時期である。
丁寧にゆっくりと生徒の様子を見ていく時期。それはこの時期が鬼門と感じるくらいに落ち着かないからである。
小さな失敗に傷つく
生徒の話を聞いてると、このくらいの時期まで来ると「楽しい」だけで生活できなくなっており、人と比べて自分の出来ないことが気になるようになっている。
だから、ちょっとした失敗に話を聞いていると随分、ダメージを受けているような印象を受ける。大人から見れば小さなことかもしれないが、当事者にとっては恥ずかしいし情けないということが多い。
生徒の出来ないことや失敗を責めてはいけない理由はこういうところにある。
大人が普段見えている部分よりも、はるかに様々な背景を生徒は抱えている。つい見えやすい数字や成果に対してフィードバックを出しやすくなるし、その理由を生徒から自責の言葉で引き出そうとする大人は数多くいる。
ただでさえ傷ついているものを、自責という形で追い打ちさせる必要は無いんだよなと、このくらいの年齢になってやっと分かってきた気がする。
若い先生方の言葉がとげとげしく感じるのは、若さゆえの特有の力みなのだろう。だんだんと子どもたちの成長が見えてくれば、必要以上に力んで責める必要が無いと見えるようになってくるだろう。
若いうちであれば生徒と一緒に時間を使うことも出来る。年齢を重ねてきて、生徒とべったりと居られなくなってくるときに、少しずつ自分の行動や言葉遣いを変えていかなければいけないのだろうと思う。
無責任な応援はしない
プライドを傷つけられている生徒にどのように関わるか。
こういう時に手札が少ないと安易に励ますということをしがちである。「そんなに心配しなくても大丈夫」だなんて他人事に言われても、生徒からすれば困ったな、という困りごとを増やすような結果にもなりやすい。
じゃあ、どうすればいいのか?
結局、都合のよい処方箋はない。
教員という仕事は、色々なものに寄り添いつつもどこかで線を引いて突き放すことが責任の仕事だと思う。共倒れしたらいかんのです。寄り添うということは感情ではなくて、合理的な判断の積み重ねなのだ。
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年10月26日
じっくりと話を聞きつつも、適度なところで客観視して寄り添う。
そして、何も答えを付け足さないし、奪い求めるようなこともしない。ゆるやかに自分の居場所から余裕をもって眺める練習が必要なのだ。