ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

まだ油断しない

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やっと来ましたね。

news.yahoo.co.jp

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意外と賛否が分かれる意見が見られることに少しコメントしてみよう。

誰も得しなかった更新制度

個人的に強く思うのが「誰も得しなかった」ということがこの免許更新という仕組みである。当事者の学校は質が向上して仕事のクオリティが上がるどころか、失効によって人手不足に陥るし、教員個人は受講料まで自己負担させられるし、担当する大学は「金儲けだ」と叩かれるけど全然そのようなことはなくて大学にも負荷をかけるし……当初の目的すらよく理解されないまま終わっているように感じる。

基本的に教員は不偏不党であるべきなので、政策などについて言及するのは危ない気がするが、我慢できずに一言だけ言うのであれば、叩きやすいものを叩かれたなという印象である。

ただ、一応、教員免許更新制度の導入の理由については、世間が期待しているような「不適格教員の排除」などが目的ではないことは強調しておきたい。

 更新制は、いわゆる不適格教員の排除を直接の目的とするものではなく、教員が、社会構造の急激な変化等に対応して、更新後の10年間を保証された状態で、自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ていくという前向きな制度である。
 更新制を導入し、専門性の向上や適格性の確保に関わる他の教員政策と一体的に推進することは、教員全体の資質能力の向上に寄与するとともに、教員に対する信頼を確立する上で、大きな意義を有する。

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/attach/1346384.htmより。2021/08/23 19:50確認 下線強調は引用者)

だから、今回の廃止を受けて「不適格教員を排除できない!!」と語気を荒げて言われてしまうと、教員の立場としては少し不服な気持ちはある*1

自分が教育学部に入学する前には「免許更新制が導入される…?」というあいまいな時期だったので、入学してから「更新制ですから!」と言われるのは随分、騙されたような気分はしたものだ。

一回目の免許更新を終えたばかりのタイミングであるので、ちょっと損した気分がある。損した気分ということは、免許更新が自分の仕事に寄与しているという実感がないのだろうなと思う。

この廃止を巡って、おそらく免許更新制度に関わってきた人たちの多くは「やっと終わった…」という安堵感の方が強いのではないだろうか。

他の更新のある資格と比べて

教員免許更新制度以外にも免許更新が必要な資格は数多くある。たとえば、臨床心理士資格は教員免許更新よりも短い5年のサイクルでの更新*2であるし、介護支援専門員(ケアマネジャー)の資格も更新制である。

費用や手間を考えると、学校の教員だけが極端に厳しい目に遭わされている…というのは言い過ぎだろう。

とはいえ、学校の労働環境の厳しさや業務の膨大さの厳しさや、制度的に免許を失効する人間が増えれば増えるほどに、学校が立ち行かなくなる怖れが強いということを考えると、免許更新分の負担軽減によって救われる人や学校はもしかすると出てくるかもしれない。

他の資格や職場との比較の議論は自分には出来ないが、学校や教育をめぐる行政の性質を考えたときに、免許更新の廃止が持つ意味は「状況に合わないものをやめてもよい」というメッセージを発することになるということだろうと思う。

学校に限って話しても、学校は次から次へと問題が起こると、色々な仕事が色々なところから投げつけられるのである。その結果、仕事がどんどんと増えていき、当初の目的を見失ったのにもかかわらず、惰性で仕事を続ける、誰も責任を負えないから止められない…というような状態に陥り、とうとう最近では仕事が飽和して、動きが取れなくなってしまっている。そのような体質の学校教育の文化に対して「何か始めたことを止める」ということが実現できた意義は大きい。

教員免許更新が止められるのだから、学校の不合理なことだって、ちゃんと止めて良いのだ。

学び続ける教え手となることの価値

こういう意見があることも紹介しておこう。

www.iza.ne.jp

教員免許更新制度が廃止になることは、教員の負担軽減にとってはとても意味があることである。とはいえ、更新制度がないからといって、今ある授業にあぐらをかくことを許されているわけではない。

自分が最近のSNSなどの意見を読んでいて気になることは、教員免許更新なども含め、本来、もっと手間や時間のかかる仕事であることをむやみに廃止や合理化ばかり言っており、肝心の教室の学びがないがしろになっているのではないかと感じることだ。

確かにこれまでの教育の方法は不合理なことが多いし、思考停止しているんじゃ無いか?もっと責任を負って決断できないのか?などとイラつくことは多いけれども、それでも教員が持っていた授業研究の文化や、それぞれの学校で伝統として受け継いできた文化には教育的な価値を持つし、そこに善き独自の教育があったと思うのだ。ただの授業のスキルや教え方の上手い下手だけを競わされて仕事をしているわけではないからこそ、学校の価値があったのではないか。

だからこそ、免許更新制などと一緒くたに研究授業はムダだと言われることには違和感があるし、授業のテンプレートのようなものを用意してただむやみやたらな反復の授業を合理性だ、生産性だというのも違和感がある。

もちろん、自分が教育学部に育てられ、それこそ教育の勉強をしはじめたころから、大村はまのことを教えられているから、「教師」というものは大村はまのようにあれ、と思っている心理が働いていることは否定できないので、そのことを他人に押付けることはできないと思っている。

とはいえ、もっと「自信と誇りを持って教壇に立つ」ために、自分に厳しく、授業について考えていかなければいけないのだろうと思っている。

この仕事を続ける限り。

*1:そもそも、教員という仕事についている人間が100万人以上いるのであるから、不祥事のパーセンテージをよく考えてもらいたいものである。もちろん、それぞれの人が学校教育で色々な思いをされたことは否定しません。ただ、それと不適格教員を免許更新で排除できるかは別問題である。

*2:教員免許更新とは全く制度設計が異なる。詳しくはhttp://fjcbcp.or.jp/jigyounaiyou/jigyou-1-2/など参照。

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