今週のお題「二十歳」
今年、教えている高校1年生は二年後は成人となる年度の生まれなのですよね。
※細かいことをいうと、早生まれとか面倒な話はあるけど、高校1年の学年は大学入学時には全員成人というわけです。
成人の日も近いということもあって、生徒とそんな話をしたりもする。
さて、高校に通う18歳の成人とは……?想像もつきません。
保護者面談しなくていいかな!?
教員としての20年とは
20歳で成人がとりあえず通念だとすれば、教員として一人前になるのも20年くらいかかるのだろうか。
自分は教員としてはまだ7年目が終わろうとしているくらいであるので、成人の半分も行かないのである。そもそも免許更新もまだもう少しだけ先の話である。
教員として働きだす人の多くは大学を出て23歳でそのまま「先生」となるのである。一人前の証としての教員免許を携えて……ただ、教員免許が現場で自分を助けてくれることはないのである。
自分は23歳で教員にはならなかった(大学院にいっているし)が、それでも20代で教員として働いている。自分の親の方が年齢が近いのではないかという保護者から先生と呼ばれる気持ち悪さはあったりするわけで……まあ、数年もやっているとそういうことにも慣れてくる。
勤続20年で表彰があったりするけど……まあ、人を見て色々と思うよね。
自分があと十年以上、同じように教員を続けているかどうか、そもそも私立学校は存続しているかどうか……そんなことを考えるのである。
20年を漫然と過ごしているだけで、上手くやれてしまうのだろうか。これからは学校自体の存続も含めて、教員には逆風の時代だろうと思う。そのような中で自分の関心や自分の強みだけで授業をしていけるのだろうか。それだけでは難しいよね。
教員のライフコース
教育以外に転職するということも選択してとしてはあり得る。が、教育学で修士まで取っているので、そうそう簡単に自分の「専門」と言いたいことを手放すことはできないで、どこまでもしがみついていくのだろうと思う。
大村はま『国語教室』の別館の自伝を読むと、とても同じような求道者とも呼ぶべき姿勢にはなれないし…。
同じ学校でずっと教員をする可能性もある。なぜなら私立は異動しなくてもよいから。そうして学校と共に自分も変わっていくという選択肢もある。
10年前の学校と自分と、10年後の学校と自分とが同じ姿であったらいかんのだろうなと思う。緩やかにであろうと、急激であろうと変化していかなければいけないのだろう。ただ、子どもにとっての三年間を考えれば、常に変わり続けていなければいけないのだろうと感じるが……さてさて。
不易と流行という言葉が教育現場は好きだが、実態は「不易」ばかりが好きなのではないかと思う。不易が許さない流行は認めない……だから、いつまで経ってもという事例が多い気がするが……そんな愚痴はあまり長く書くものでもないのでこれくらいにしておこう。
教員の仕事は20年くらいでは成人できないのかもしれない。