ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

言葉を豊富に経験する

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寒くなってきて体調管理が大切だから早く寝ようと思ったのに、本を読みすぎて止まらなくなってしまい、結果的に酷い夜更かしをしました。

気持ちがブレているので大村はまの著作を読み返していますが、読み返す度に自分の記憶力の悪さが…。

自分の言語体験は豊かか

大村はまの著作を読んでいて思うのが、非常に出てくる「言語生活」の例が多様で豊かであるということだ。そして、その多様な言語生活に対して、しっかりと大村はま自身が一つ一つに強いこだわりを持っていることである。

例えば、「国語教室通信」の折々の話題について読んでも……この毎週の頻度でこれだけの「ことば」についての話題を提供し続けることは自分には到底不可能である。このような「ことば」に対するこだわりを仕事に忙殺されていると、ついうっかり忘れてしまい、全く広げる努力を怠ってしまっていると気づくのである。

教える側が、徹底して言葉について、こだわり抜いているからこそ、その教室の子どもたちが、言葉に対して生き生きと関わろうとするのだと思う。次の鼎談の一節は、なかなか恐ろしいことを言っているとつくづく感じる。

野地 ありがとうございました。大村先生、生徒たちはことばの勉強がたいへん好きだということを承ったことがございますが……。
大村 好きなんです。おもしろいと言ってもいいかもしれません。こんどは「このことばこそ」という題名で、こういうふうに展開してみようなんて言うと、乗り気になって、少し椅子を寄せてきたり、いろんな子どもが目を輝かすわけです。どの子も自分の出番があるような顔をするわけです。こういうことをこんどは勉強しよう、と言い出してみたとき、「ああ、それはだめだ」という顔になることもありますね、むずかしいことですと。それが「うん、そんなら自分も」という気持ちになるようなのです。

(大村はま1983『大村はまの国語教室 第9巻 ことばの指導の実際』P.7より。下線強調は引用者)

 

 

野地潤家、倉澤栄吉、大村はま…という鼎談も恐ろしいのだけど、言っていることもなかなか恐ろしい。

いや、恐ろしく感じるのは、自分の授業の駄目さが浮き上がるからなのである。例えば、下線強調した部分のように授業に対して生徒が「自分の出番がある」と感じて、どれだけ前のめりになっているだろうか…いや、全くそういう姿を見ていないと感じてしまう。

自分の授業がつまらないものになっている。そして、そのつまらなさの根幹にあるのが、自分の日常の言語生活の乏しさのように思うのである。

何を徹底するか

一方で、「国語教室通信」で書かれる話題を見ると、いたずらに難しいことが書かれているわけではなく、生徒の言葉に関わる生活や様子から題材を見つけているのだろうなと感じられることがいくつもある(研究じゃないのでふわりとした印象で勘弁してください)。

授業で扱っているだろう題材に対してのコメントも数多く出てくる。

非常に、子どもたちの具体的な姿に語りかけるような書きぶりになっているのである。ここまで執拗に、言葉についての様々なことを手渡していく姿は、同じ教員から見れば、鬼気迫るものが大いにある。

いや、そりゃあ、高校の教員が、何も考えなしに、大所高所から物を言えば、一見すれば書いてあることは「単純なことばかり」というような言い方も出来てしまうのも事実である。

でも、仮に本当に「単純なこと」だとしても、ここまで徹底できるのかという問題もあるし、ここまで手をかけて子どもに何か働きかけ続けようとすることが出来るだろうか。

中学校で自分が同じ事をやれと言われても無理です。

物量の問題のみならず、一クラス20人くらいだけを相手に、分掌などを外してあげるからやって…と言われても、それでも自分の勉強がここまで及ばないと思うのである。

ただ、もっと自分が子どもを見とれるようになれば、生徒へ投げかける言葉も、もっと豊かになるのかもしれないと思うのである。大村はまにはとてもじゃないけど、追いつけない。

でも、自分の教室に適した言葉や手段が見つけられないものかと。そして、その根幹にあるのが、子どもの「ことば」をもっとよく見ることだと思うのだ。

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