三者面談の時期。
保護者の様子を見ていると、子どもに対する心配は尽きないのだろうなと思う。
保護者の心配に対してどれだけ担任は重みを分担することができるのだろうかということを考える。
持続可能な日々のために
担任は保護者のように子どもたちを背負って歩くことはできない。40人いれば40人に対して同じことができる対応以上に対応をしてしまってはいけないのだ。
丁寧に面談したり、日々の生活で声をかけたりすることはできても、手取り足取りフォローしていくことは難しい。
転ばぬ先の杖で、生徒の失敗を取り除くような動きで「フォローしている形」は作れるかもしれない。ただ、あまり先回りしていると、何も失敗しないで何もできない生徒を育てかねないという危惧はある。失敗や困難を経験するからこそ、改善できることがあるのである。
本当に保護者のように学校で振る舞ってしまったら、とてもじゃないけど、公平で安心できるような教育はできない。
安心と安全は知っていることから
保護者にとっての安心はなんだろうかと考えていくと、結局は子どものことをどれだけ知っているのかということなのだろうと思う。
教員にできる仕事の限度は常識的に理解されている場合が多く、大抵の保護者は無茶な要求はしてこない。
ただ、それでも心配なので、色々なことを知りたいと思っているのだろうと感じる。
だからこそ、普段からどれだけ生徒のことをよく知っているかということが、担任の力量の底力として試されているような気がする。
生徒のことをどれだけ知っているか。実は知ったつもりになっているときのほうが危ないのだ。
いつも新鮮に、いつもフラットに生徒の様子を見ていなければ、わかったつもりという大きな不信につながる。
なんとなくそこにいるという状態になるしかないのかな。置物くらいの認識をされるのがよいのかもしれない。