ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

「役に立つ」幻想

新しい教育とは何かと話し合う機会や目にする機会が増えている。

自分の実践を定期的にメタ化して振り返ることは決して悪いことではない。結果的に今と同じことなってもよいので、とりあえずざっくばらんに話してみることは重要です。

 

 

ただ、そういう話の中で気になる表現が…

「役に立つ」と言いがちだけど

つい、今の激動の時代を生きていると「なにかの役に立つ」という言い方が、心地よく聞こえるし、自分の教員としての責任を果たすことになるような感覚を覚えがちである。

しかし、「役に立つ」ということを、教育の目的にしたときに何が起こるだろう。

「たられば」の話にしかならないけれども、そもそもとして教育の成果を外部の基準に求めてしまうということは、実はそれほど偏差値で評価されるということと大差はないのかもしれない。

「役に立つ」ということを考えていくと、結局は突き詰めていくと数値やわかりやすいものになりがちなのだ。そうなってしまうと、教育の仕方だって教科教育で模試の点数を上げようとすることが、また、別の何か稼げそうなことに置き換わるだけで、あまり本質的にはあまり変化は起こらない。非常につまらないことになりそうだ。

「何かの役に立つ」の「何か」を「社会の」というと、あたかも何かを言ったかのように思えてしまうのも厄介だ。「社会の役に立つ」ということが吟味されずに、ただ、都合の良い労働力、雑用、使いっ走りになってしまうこと自体に問題がある。

外に基準を求めるのではなく

究極的には、自分たちの教育の成果を自分たちで「よい」と言えるための基準を、自分たちで見つけるしかないのだ。自信を持ってその教育の内容が良いと言え、教育のあり方が望ましいと言えるための哲学が必要なのだ。

それは周囲からの期待から逃げるということではない。自分の中にある価値を外に開いていき、その価値が共有されてくるようなあり方を探していくしかない。

時間と手間がかかる作業だ。つい一足飛びに結論だけ欲しくなったり、わかりやすいものを求めたりしたくなる。

しかし、どうしても粘らなければいけないこともあるのだ。

Copyright © 2023 ならずものになろう All rights reserved.