ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

逆説的な授業に関する考え方に

今月の明治図書の『国語教育』はこんな塩梅なタイトル。

なかなか挑戦的なタイトル。これには元ネタがある。

もちろん、今回の『国語教育』でも若松先生は寄稿している。

逆説的になる

本号の特集テーマ「どうつくる?教師のいらない国語授業」についての答えとして、ある意味で一番秀逸だったのは編集後記である。

編集後記ではChatGPTにこの問いを聞いてみた結果を枕にして話を展開している。そこでの結論としては「逆説的に」あることが示されているという。

気になる人は以下のリンクから「編集後記」を読むことが出来るので読んでみてほしい。

www.meijitosho.co.jp

「教師がいらないためには教師が必要である」という逆説。ある意味で、授業をしている人間であれば「まあ、当然だろう」と思うような結論である。そういう話を一冊丸々と使って論じた……とも今号については言える気がしている。

結局、どういうことだろう?

「教師のいらない」という言葉について、本号では各論者がそれぞれに色々なことを言っている。そのことも見所の一つだ。そのため、ここでは詳細な紹介は避ける。先入観無しに、それぞれの筆者の考えを読んでみて、その上で気になることがあれば深掘りして見るのもよいだろう。

なんとなく、色々な論者の最大公約数的なことをここに触れておくのであれば、編集後記が前述のような形になることからも分かるように、「教師のいらない授業」とは「教師のいらないようにみえる授業」と言えそうである。

これがまた曖昧で難しい。「ように見える」ということは、結論としては反語的に「要る」ということになるのだけど、一方で、教師の強力な介入や学習者の学ぶ力の軽視を言っているわけでもない。

子どもたちの学ぶ力を信じて、必要な権限を委ねていくという趣旨は変わらないのだけど、教師のいらないという言い方は結構、強烈である。

自分の授業を振り返ると、結果的に自分は要らないかもしれない。去年、流行の病に罹って一週間監禁されたときも、自分が教室にいなくても生徒の学習活動はしっかりとしていた。単元の構造がはっきりとして目指すところが分かれば、自走できるのである。

一回、一回の授業でイチイチ全員に介入しなければいけないような授業は自分が息苦しい。姿が見えるようで見えないくらいでちょうど良いのかもしれない。

余談

ちょっとだけ気になるのは「教師のいらない授業」と「教師のいらない単元」では随分と意味が違うのではないか?ということである。

前者は十分に成り立つが、後者については教員の仕事を果たしているのか…?自分には分からない。単元のという言葉もかなり曖昧なものではあるが、単元を見立てるのは教員の仕事だろうと思っている。車輪の再発明にならないように、なおかつ必要な試行錯誤はさせるような、そういう魅力的な素材を集めて、構造化することが「単元」だと思うし、そういう単元をつくる力こそが自分たちの専門性ではないかと、教員として思うのである。

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