色々なことが毎日起こる。2学期は長いので余裕の無くなる瞬間も多いのだ。
思い通りにならない前提で
色々なものが思い通りに進まないのが学校なのである。
2学期はイベントも多いので生徒に指示をかなり細かく出すことが多いのだが、そういう時に期待通りに子どもたちが動かないと、感情は波立つものである。
流石に脊髄反射で腹が立ったこと顔に出すようなことはなくなったが、思い通りにならないときにはイライラとしてしまうのは修行が足りないと思うのである。
生成AIにプロンプトを与えて思い通りに動かそうということと、子どもに対して何かを投げかけて動いてもらおうとすることは全く違う営みなのである。与えた指示に対して結果が出るまでどうなるか分からないのが生成AIも子どもたちも似たようなものであるが、子どもたちへの指示は自分の思い通りに動かすためではないはずである。
指示が通らないことも、上手く指示通りに動けないことも、そういう一つ一つのできごと自体が学びなのである。
上手く動かないことに対して怒りを持つのは、仕事としては自分勝手なのである。
自分の都合の良い子だけを教えたがる人は少なくない。
でも、お互いに思い通りにならない、違和感の塊としての他者がそこにいるから教室で学ぶ意味があるのではないの?と思うのである。
違和感への耐性を
子どもたちの様子を見ていると少しの違和感に対して我慢できないでいるケースが多い。お互いに少しずつ居心地の悪いことに折り合いをつけながらも破滅的な衝突をしないように細かくぶつかっていくことを学ぶことも必要だろうと思う。
そういう違和感に対する折り合いの付け方、もしくはぶつかり方をきちんと学んでほしいと思うのであるが、様子を見ていると、やはり上手くやれないケースは少なくないように感じている。
ただ、残念ながら、そういう子どもたちの反応が漏れ出てくるのは、おそらく教員の姿の結果なのだと思う。違和感のあるものに対して過剰に反応することが当たり前になっている。
我慢をすることではない、過剰に反応しない、折り合いをつける。
そういう慎重さ、あるいは諦め、そういう自分をコントロールする力が弱くなっているのでは無いかと思うのである。
余裕がない。
余裕がないから言葉も態度もきつくなる。