ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

曖昧なことは弱みか強みか

授業づくりをどうするかなぁと考えながら、こんな本を読んでいる。

本書の中で松崎正治先生が国語科の「見方・考え方」と他教科のそれを比較した議論を展開している(PP.26-43)。

そこで国語科の「見方・考え方」が他教科に比べて曖昧であるということを論じている。そして、その曖昧な「見方・考え方」について「資質・能力」の育成に役立てられるような具体性を持つような提案をされている。

そのよう内容については、本書の重要な論点なので勝手に開陳してしまうのもどうかと思うので、気になる方は本書を手に取って読んでもらうとよいと思う。

本書の論点と少し違うところで、国語の授業づくりに関して思うことをいくつか書いてみようと思う。

曖昧な文言と細かすぎる解説

高校現場が現行の学習指導要領になって、次年度でやっと3年目である。観点別評価など様々な面で変化している。

学習指導要領の変化に伴って、科目の構成もだいぶ変化しているし教科書の内容についても大きく変化している。現場レベルだとせっかく大きく変化している教科書なのに、しぶとく生き残っている定番教材だけを選んで、同じ授業をやり続けているケースが多いことよ……。

教科書の変化は面白いと思うのだけど、かなり細かいところまで五月蠅くなったなぁ…という印象がある。学習指導要領の解説編で挙げられている内容と一致するように作っているのでこういう形にはなるのだろう。つまり、学習指導要領の解説編自体がかなりうるさい感じで書かれている印象がある。

そういう細かいうるささに対して、そもそも学習指導要領の文言自体は分かるような分からないような、そういう曖昧さがある。

この状況では「とりあえず今まで通りの授業をやっておこう」という態度か「教科書指導書の通りに活動させてみよう」という態度になりそうだなぁという気がしている。

自分で授業をつくるには

学習指導要領の解説編がかなり細かく書かれているので、授業をやろうと思うとなんだかやれることは縛られてくる感じがする。

教科書の教材についても、ある方向性だけに強く引っ張られてしまっているから、オリジナリティやそれぞれの教室の文脈を取り込みにくい印象はある。こういう時期に新しく四月から授業を始める先生にはなかなか難しい状況だなと思う。

旧来の授業を繰り返すだけになりがちなるか、全然、盛り上がらない活動になるような課題を投げてしまうか……いずれにしても厳しい。

最も唾棄すべきは、自分で教科書や言語材を工夫することを軽視して、模試や入試問題で点数取るためのテクニックだけを教えるような授業は、もう学校現場である必要は無いんじゃないか?と思うのである。

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