いよいよ週が明ければ新学期。
実は授業をどうするかのイメージが全然無いままに呆然と毎日過ごしている感じがあるけど……まあ、それはそれとして始業式が来るので生徒を迎える準備をします。
親切にしすぎないように
どの学年の生徒を迎えるかによって対応の仕方は少しずつ変わるけれども、少なくとも最上級生を迎えるのであれば、それほど親切にしなくてもよいかなという気分はある。
丁寧にすればするほど、自分たちでどうにかしようとは思わなくなる。
最上級生であれば、もう自分たちのことは自分たちで決めれば良いと思うのだ。
学校の当たり前ということが、知らず知らずのうちに余計なお節介になっていないかということを見直してもいいのではないかと思うのだ。
無駄に生徒を困らせる必要は無いけど、少し考えれば解決できるものは、生徒に任せてしまえば良いのだ。その方が教員だって仕事は減る。
例えば、座席表を作るかどうかということも、色々な思惑はあるのでそれは否定しないけど、別にこだわりがないのであれば、来た生徒が考えて自分で座れば良いだけではないかと思うのだ。
机だって四角四面に並べないで、好きに並び替えさせることから始めたっていいはずだ。
隅々まで綺麗にしておいて、でも机や椅子は自分たちで並べるところから。歓迎されているけれども試されている。そのくらいでいいんじゃないかと思うのである。
伝え方は聞かせるだけではないはず
担任として教室を持つのであれば、自分の思いを子どもたちに伝えたいと思うから、教員としての仕事をしている人は多いと思う(自分にはそういう気分はあまりないのだけど)。
だからこそ、子どもたちに話を聞いて欲しいという思いが前面に出て、色々な文章を書いて渡したり、ホームルームで長々と話したりしているようのだろうと思う。
ただ、そういう思いはやっぱりどちらかというと空回り、押しつけがましくなりやすいのである。何年か経ってからありがたいと気付くこともあるかもしれないけど、基本的には、大人の気持ちなんて子どもにとっては人ごとなのだ。そういうものである。良い悪いでもなく、ただ、そういうものである。
だからこそ、伝え方についても聞かせる、読ませる以外の方法が無いかということも考えてみたい。
何となくそこに一緒にいるということでもいいだろうし、なんとなく言葉を交わすというくらいでもいいかもしれない。
資料も作り込むのではなく、軽いものをさりげなく置いておくみたいなこともありえるかもしれない。
何もかも理想通りに伝わるという発想から、必要なことを選んでくれるという発想へ…そういうことを考えてみたい。