ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

当たり前を丁寧に…

二学期は学校は色々とトラブルが起きがちである。

慣れてきてちょっとしたことが疎かになるので、生徒も教員も落ち着かなくなる。

こういう天気が悪いタイミングは、ちょっと怖い。

音から変化がやってくる

個人的に感じることとして、学校が落ち着かなくなる時期はとにかく生活の場の音が大きくなりがちであると感じる。

生徒の動作が落ち着き無く、物の音が大きくなったり、声の大きさが自制心無く大きくなっていたり、とにかく音がだんだんと大きくなっている時期は、生徒がまったく落ち着かない。

見た目にそれほど変化がないときであっても、音の変化は割と敏感に現れる感じがある。

ちょっとした私語も積み重なれば、かなりの騒音である。

そういう状態で授業をやろうとすると、教員は声を張り上げるようなことになる。

これは自省を込めた書き方になるのだけど、授業で大きな声を出さなければいけない状況は望ましくない。

大きな声を出さなくても十分に通るような落ち着きは授業に欲しい。

一番よくないのは生徒が騒がしい中に、教員が大きな声を出して制しようとすること。教員の声が大きくなるとますます生徒の声が大きくなる。悪循環である。

動作を落ち着かせる

落ち着きがないときほど、一つ一つの行動をゆっくりと静かに行う方がよい。そして、ひたすら待つという姿勢を見せた方がよい。

「伝える」という行為は、言葉を投げつけると言うことではない。

大人に対して大声で相手の動作を制して自分の話を聞かせるようなことをしないように、生徒に対しても大声で制するようなことをしてはいけない。

「伝える」という気持ちがあるならば、伝えたい相手がこちらに気を向けるまで、気を送り続け、聞いてもらえることを待つことが大切なのだ。子どもを子ども扱いしないということに尽きる。

話すための時間や伝えられる量が減ったとしても、ちゃんと伝わるタイミング以外は話さない。そういう態度は必要だろうと思う。

相手が聞くことを尊重しつつ、自分が話すことを尊重してもらう。相互に信頼し合っている関係性でしか声を発すべきではないのだ。

パッと見て分かる落ち着き

自分は割と保守的で古くさい教員でもある。そうやって大学の時に教えられてきたので、それを保守的に守っているとも言える。

つまり、教室は教員の責任でしっかりとパッと見て整頓されて落ち着いているべきだと思っている。

確かに生徒たち自身が自分で自分の生活の場をしっかりと責任を持てるようにならなければ、成長はないと思っている自分もいるのだけど、一方で全員の生徒の安心のためには教員が負わなければいけない責任の範囲として、教室の落ち着きを演出したいと思うのである。

時期の問題でもある。

落ち着かない時期であれば、やっぱり教員が介入しても良いのでなかろうか。

ただ、それが生徒の関係性や生徒自身に直接強権を介入させるのではなく、環境や居場所について強いメッセージを残すことによって、気づきを促す……ということでよいのではないか。

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