ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

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読めているようで読めてない。意外な読解ミスから考える。

DNA

九月は福岡伸一の「動的平衡」をやります。 

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

 

まあ、科学の話としては典型的なパターンで読める話なので、それほど難しくないと思っていたのです。

が……思わぬところで、生徒の読みの失敗例に気づきました。

頻発する「知識」からすれば変な解答

読みの方略を自覚的に使わせることを考えて授業を進めている。今日の授業では「対比」を意識させて本文の整理をさせていたのだけど、何だかトンチンカンなことがたくさん出てきた。

機械論←→還元論

まあ、高校レベルの評論文であれば、「機械論」と「還元論」の二つは細かいことを言いっこなしにすれば、「知識」としては「ほとんど同じ意味」として覚えているものだけど(事実、生徒の持っている用語集ではそういう扱い)、今回の授業でやたらと「機械論と要素論が対比だ」と書いてくる生徒が多い。

ノートを眺めていて、こんなことを書かれてしまうとさすがにちょっと気が重くなる。用語集の内容のテストなどもしていたので、さすがに「機械論」と「還元論」は知識として覚えているだろうと思ったのだけど、全然、覚えてないじゃん……と肩を落としたのであるけど、あまりに同じミスが続いたので、あらためて生徒がどこを根拠にしているか確かめてみたら面白いことが分かった。

次の文の対比の要素がわかりますか?

本文のなかにこんな部分がある。

シェーンハイマーは、それまでのデカルト的な機械論的生命観に対して、還元論的な分子レベルの解像度を保ちながら、コペルニクス的転換*1(ブログ主注:ここでは、「動的平衡」の考え方のこと)をもたらした。

と、どうやら生徒はこの部分を根拠に対比を書いているらしい。

さて、この一文を根拠にして考えると、どのような「対比」を作ることができますか?

 

 

もちろん、正解は「機械論的生命観」対「動的平衡の生命観」だ。もしくは、「デカルト的な考え方」対「シェーンハイマーの生命観」などでもいい。別に厳密でなくていいので、このくらいでまとめてくれれば、ここでの作業としては十分だと思っていた。

ところが、生徒がこの部分で「対比」だと思ったのは「機械論」対「還元論」なのだ。

なぜ、こんな間違えが起こるのか?

単純に考えれば、文の中に「……に対して~~」という表現があるので、そこに注目して「に対して」の前後を「対比」させて書いたということなんだろう。

こんなことを書くと「文の意味を理解していないのか!」と生徒の読解力が危ない、どれだけ子どもの学力が下がっているのだ、お前は何を指導しているのだと叱られそうだ。

少し前にこんな記事が世の中を賑わせましたしね。

語彙不足に警鐘 読解力低下で専門家- 毎日新聞*2

「AIの性能を上げている場合ではない」──東ロボくん開発者が危機感を募らせる、AIに勝てない中高生の読解力 - ITmedia NEWS

ここで話題になっている以下の問題と「間違えの理由」は近いような気はする。

「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている」という例文から「オセアニアに広がっているのは(   )である」という文の空欄にあてはまるものを選ぶ問題

この問題の誤答で一番多いのは「仏教」だというのは、「述語」だから「主語」が文頭に来るだろうという思い込みで答えているからだと思う。

要するに今日の授業の間違え方も、この問題の間違え方も「パターン」に当てはめてろくに文章を「読んでない」んじゃないかと思う。

果たして「読解力」がないのか?

このミスを生徒の「集中力のなさ」だとか、能力の低さだとかに押し付けてしまって、生徒をしかりつけて直させるだけで、指導したということにしていいのだろうか?

個人的に思うことは三つある。

一つは、たとえば「……に対して~~」という文型があれば、前後が対比だという判断を生徒がしているのは、普段の授業や彼らの経験の結果、「そういう風に書かれていることが多い」ということを知っているからこそだろう。

だとすれば、そのように「文型を理解している」ということを過小評価して「読解力がない」と言い出すことは適切なのだろうか。もちろん、全体の文脈を丁寧に読んで挿入語句を見抜いて正しい対比を指摘出来てもらわないと困る。でも、「対比」という表現の仕方があることを知っていて活用しているということは授業をする側は意識しておくべきなのではないだろうか。

そこから二つ目は、「型」や「パターン」を教えるということの良し悪しだ。今回の間違いは生徒が前後を読まないで「に対して」という言葉だけ見て、単純に対比を作って誤読しているわけだけど、「に対して」を見つけたら対比ということを意味から切り離して教えてしまっている影響はあるのではないかと感じる。

三つ目は、そもそもこの「動的平衡」にしても記事の問題にしても、「問題文自体が悪文なのではないか」ということだ。生徒が読み方の方法として「に対して」があれば対比だとか「述語は主語と対応していて主語は文頭にくる」だとか、そういうことを知っているのに、読むことに失敗してしまう。そのような文をどう考えるか。

たぶん、生徒がこんな読み間違いされやすい文章を書いてきたら修正させるんじゃないかと思う(笑)。

だから、生徒の読解力がないというよりは、文が悪いと言ってしまってもよいんじゃないかと思う節もある。こういう悪文を時間かけて理解するよりは、間違った都度、訂正していけばいいと思うし、この手の悪文を正確に読めるようにさせる方法を考えるのはちょっと面倒な気がする。「太郎は風邪を引いた花子をお見舞いへ行った」のようないわゆる「袋小路文」だとかもおそらく同じような読み間違いが起こるだろうけど、生徒に「袋小路文って間違いやすい分がある!」なんて教えてもなぁ……と思う。

どう思いますか?この読み間違い

まあ、こんなに雑な分析では何も説明したことになっていないのだけど、今後も結構出てきてようなミスだけに、どう考えればよいか面白いところ。

さて、みなさまならどう考えるでしょうか。

*1:本文ママ

*2:念のために言及しておくが新井紀子氏が「国語の授業で文学作品を読むだけでなく、論理的な文章をグラフや表と併せて読み解く作業も必要だ。教科の中身を見直す時期に来ているのではないか」と述べているのは国語の教科書を読んでいるとは思えない発言であることは指摘しおく。国語の教科書はPISAショック以来、随分、非連続テキストの入った文章や論理的な文章が増えている。

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