アクティブラーニングとキャリア教育という二つの事柄は、あまりに現在では話題になりすぎて食傷気味であるのも事実です。
しかし、一方で今回の高校教育フォーラムでのお話を聞いて、「これは大変なことになる」ということを強く感じているので、とりあえず、この衝撃を書けるだけ書いておこうと思います。
さすがに京都まで行き、休む間もなく往復していると、なかなか身体にダメージが来るなぁという感じで、グダグダとしており、まだ資料や自分のメモを整理できていませんが、忘れないうちに印象的であったことを勢いで書いておこうと思います。
どうせ、「あとでまとめます」と言っても、やらなくなることは目に見えているので…。
なお、以下の記事についても、未整理な箇条書きのものですが、ご覧になってもらえればと思います。
根本的なパラダイムの転換に対する認識が甘かった
偉そうにこんな記事を書いているくらいなので、自分としては「まあ、人よりはこの改革の危機感分かっているよね」というつもりでいた。
しかし、今回の教育の研究者たちの最前線の話を聞いて、自分の認識の甘さに愕然として帰ってきている。
今回のフォーラムでご講演いただいた溝上先生をはじめとした研究者の方々のご著書や論文について、自分の仕事と関連するものについては色々と読んでいた。
だから、どのような話がされるのか、どのような問題意識があるのかということについては、まずまず予測というか、要所を押さえられているだろうと思っていた。
しかし、そういう思い上がりをしているときというのは、やっぱり落とし穴だらけというべきか、認識が甘かったのだろうと思うしかない部分だらけであった。
たとえば、溝上先生のご著書では「トランジションリレー」というような言い方で、アクティブラーニングやキャリア教育をその校種の発達段階にあわせて適切に、確実に行っていくことが説かれており、その内容について納得し、理解しているつもりであった。
ただ、実際に自分の仕事場での振る舞いを考えると「まあ、なかなかこのあたりの感覚は分からないよね。」「ゆっくりと説明して分かってもらっていこう」というあきらめとともに、自分の授業や仕事の範囲でできることをやっていた。
しかし、今回のフォーラムでの溝上先生や森先生の話を聞いて「そんな甘いものじゃどうにもならない」という危機感を覚えた。
第一に「カリキュラムマネジメント」の問題。
「とりあえず、自分が分かってやっておけばいい」という発想で、授業の工夫などを行ってきたのだが、それは結果的に「この授業だけやっておけばいいじゃ困る」という今回のフォーラムで指摘された状態に陥っている。
「どんな子どもを育てたいのか」というビジョンについて、個人としての思いや数値目標は抱いているが、所詮、それは個人の自己満足であって、「トランジション」という発想からすれば、まったくその課題の解決には貢献していないことになる。
結局、自分が子どもとかかわる時間は中等教育という性質上、その教科の授業のみである。そのような関わり方で、生徒の日々の生活や将来の見通しを持たせていくような指導をしていくことは難しい、というか不可能である。
本当に「トランジション課題」の解決を願い、成長を願うならば、全校を挙げて、統一的な取り組みをしなければならないという視点が、自覚しているつもりでも弱かった。
教科指導ですら満足にできるのか?
周りの反応の鈍さにうんざりとしながら、自分のやれることをやろうと思って授業を進めてきたわけであるが、その授業の質についても疑問に思わざるを得ない。
結局、「どのような子どもを育てるのか」という発想に、確固たるものが全体にない以上、自分が見立てて行っている指導を客観的に評価する指標はない。
評価できない以上は、どのような改善の必要があるのかを問うこともないし、どうしてその指導の必要性があるのかということについても説明がつかない。
「主体的」と「協働的」ということについては、ある意味「活動」という分かりやすい指標に寄りかかれば、「やっている」というアリバイにはなる。
しかし、「深い学び」という点については、どうしても正当な「評価」を行う必要がある。しかし、その正当性になるような軸が自分にはない。
結局、単元づくりや授業づくりを一生懸命やったとしても、その先に「どのような姿で卒業させるのか」ということのビジョンもなく、また、指導の結果がそのビジョンに結び付いているのかどうかという評価もなく、いったい、この四か月になにをやっていたのかが分からなくなった。
今すぐに、責任は重く
とにかく、今回、これほどまでに衝撃を受けている一番の理由が京都大学と河合塾の通称「10年トランジション調査」の結果を見たことだ。詳しくは、溝上慎一先生のサイトの資料をご覧ください。(溝上慎一ホームページ Shinichi Mizokami's Website)
高校生の時の学びや成長に対する傾向が、大学生や社会人になってもそう簡単には改善されないということがデータによって示されていることの衝撃たるや、うまく言葉にならないほどに焦りを感じる。
「周りに説明するのは骨が折れる」「とりあえず自分がやれることをやっておこう」というのんきな構えでは、まったく今、目の前にいる子どもたちに対して、誠実な仕事をしていることにならないのだ。
ある意味で、「全員で力を合わせて」という当然といえば当然の仕事のやりかたをできていないことが問題なんだけれども……その「全員で」がこの業界ではなかなか苦しいことはお分かりいただけるのではないかと思う(苦笑)
教科中心の研究会や大会では、「カリキュラムマネジメント」という言葉が、教科の年間指導計画程度の言葉で置き換えられているのではないか。
もちろん、そのような意図で話していない方もいるのだろうが、聞く方の意識として、教科教育の人々の集まりだと、一年間でどうやって教科指導していくかという議論に置き換えて聞いている人は少なくないんじゃないか。
自分自身の認識の甘さであったのだが、もはや教科でどうしていくかという程度の観点で解決できるような問題じゃなく、根本的に生徒の日常をどのように支援していくかという発想でないとどうにもならない。
じゃあ、どうしていくのか
正直、困っている。
自分自身が抱いている危機感が、まだ、うまく整理して言葉にすることができていない。とにかく、一人の力ではどうにもならないのだけれども、それを理解してもらうことが簡単じゃないということである。
どこの学校とは言わないけど、これだけの話を聞いた後の実践報告で、教員は「研究のことはよくわからないけど、経験的にはこうだ」というふうに話せてしまう(しかも、内容や方向性としては疑問が多い)のだから、なかなか、自分の今抱いている危機感を分かってもらうのは難しい気がしている。
自分がうまくまとまっていない、言葉にできていないのが一番の問題なんだけれど、それでも、このような隔絶を埋めることに対する見通しの立たなさが苦しい。
だからといって、自分にできることを……と、自分のことだけをやっていても、何にも貢献しない。
うーん……困った。