ライティングワークショップをやる一方で、他のクラスでは論説文を淡々と読み進めております。まあ、指導としては自力で読ませることに主眼を置いて、自分はできるだけ支援に回るようにしているので、淡々と読み進めているのは生徒ですが(笑)
高校の現代文の読解の指導としては、教科書を読むことに満足して教室に閉じこもることがないようにしたいと思っている。だから、今回の課題としてはさまざまの資料を用いて読むことを課題として指導している。
いわゆる「比べ読み・重ね読み」のようなことをしている。正しくは、「比べ読み・重ね読み」は文学的な教材の文脈の言葉だけど、まあ、複数の資料を読むという意味で伝わりやすいのでここでは仮に使っておきます。
資料が増えると負担感が増える
当たり前のことだけど、生徒に読ませる文章が増えれば増えるほど、生徒の負担感は増える。特に、文章に手心を加えないで、新聞や新書などの資料を読ませようとすると、現状の生徒の実力からするとやや背伸びをさせることになる。
また、内容の難しさとは別に、そもそも活字を読むことがあまり好きではないというところからのスタートだけに、資料を多く渡していることも生徒には負担を感じさせることになっている。
今回の授業のテーマが「グローバリズムとナショナリズム」などの問題を含む素材であるので、ちょうど話題になっているアメリカ大統領選挙やヨーロッパの政情などを話題に上げやすく毎回の授業で近々の新聞を読ませているし、教科書の文章も複数読ませたり生徒の書いた感想をこちらでまとめて読ませたりと、毎回の授業で読ませている文字量はかなりのものになるんじゃないかと感じる。
それだけにプリントの整理も一苦労のようで、だらしない生徒はプリントを散乱させていたり……(笑)いや、笑えないけど!!
細部を細かく読んでいくだけでは「重ね読み」はできない
物理的な大変さももちろんあるのだけど、それ以上に生徒にとって「重ね読み」ができない、苦手だ、処理できないと思ってしまう理由として、彼らの身に染みついている「細かく分けて細かい部分を読んでいくことで全体を理解する」という方法の読み方だと、「重ね読み」をして書いてあること以上の意味を生み出していったり、多くの情報をまとめたりすることはできない。
多くの情報を自分の観点で取り出したりまとめたりするときに、いちいち一つ一つの文章を細かく分けて細部にこだわって読んでいってもうまくいかない…というか情報過多で木を見て森を見ずに陥ってしまう。
ある意味で、複数の資料を使って、一つのテーマについて考えを深めていくという方法は、一つの文章について全部を丸々正確に理解できなくても、複数の資料の共通点や相違点から考えをアプローチできる余地があるし、むしろ、そうやって考えを深めてほしいと思っている。
どうしても、模擬試験や大学入試が、細かいことをちまちまと答えさせる問題が多いから、一つでも理解できないことがあると気になっちゃうんだよね……子どもたち。
わからないことがあっても、複数の手順でアプローチする感覚をちゃんと持たせておきたい。
分かっても教科書にない表現は書けない
あと一つ、根深い問題が「国語の授業の答えは教科書の言葉で答えないとダメ」という思い込みである。その思い込みのおかげで、複数の資料を与えるといろいろな資料を考えなしにパッチワークしたキメラのような不可解な文章が出来上がってくる。
もう、そういう文章を読むと添削している側のダメージがでかい…。
どこでそういう思い込みができるのかと思えば、やっぱり試験に彼らなりに適応した結果なんだろうなぁ…。そして、それを見過ごして「〇」をつけてきた教員の責任は重い。
どうやって考えたらいいか、どうやって考えたことを言葉にすればいいか、その当たり前のプロセスに弱点を抱えているのが苦しいところ。当たり前を教えることこそやはり難しい。