次年度の授業計画などを考える作業がそのうち始まるので、あらためて教科書を読み直している。
このタイミングでは改訂はないので、すでに何度か読んでいる教科書の素材を吟味し直しているという感じである。
きっかけは参考書の無料開放
あらためて教科書をしみじみと読み直そうと思ったのは、KADOKAWAが参考書を無料開放しているのがきっかけだ。
ここで解放されている参考書の多くは自分も仕事で買っているので新しく読むという感じではないのだが、生徒にとってはこれだけの量の参考書が無料で読めるのはかなり食いつくのではないかなぁと思うのである。例えば、
や
など、受験生からはそれなりに評判の高い参考書が無料で読めるようである。※スタサプやN高系の参考書ですね。
現実問題、電子書籍だと受験勉強はしにくいので、この無料開放で気に入った参考書があれば生徒は書店に買いに行くのだろう。なかなかWin-Winなやり方なのかもしれない。
さて、なぜ、この無料開放をきっかけに、教科書をあらためて読み直しているのかと言うと、「手元にあるはずの教科書よりも生徒の勉強には参考書が優先される」ということに何となく違和感を感じたからである。
他教科はどうか分からないが、国語の教科書はあまり自習には向いていないのではないか。読み物としてストレスなく読む分には優れたアンソロジーであるだろうが、何か目的を持って具体的に力をつけたいと思った時に自習する素材としては、およそ不向きな感じがある。
これは筑摩の
のシリーズが教員からの支持が強いのに対して、生徒からはあまり人気がないこととも類似しているような気がする。
本当に自分だけでは学べないか?
国語の教科書では自習はできないのだろうか?
一応、どの教科書であっても、文章の内容に対応する章末問題などは申し訳程度についているが、模範解答が書かれているような教科書は見たことがないので、これでは自習のしようがないだろう。授業で教員のフィードバックを受けて、内容を深めて解き直して……というサイクルが強く前提にされているような気がする。
一方で、問題を解く生徒側からすれば、解答に対して即時のフィードバックがほしいのは当然であるし、分からないことがあれば早く解説が欲しいのである。
そう考えると、文章が羅列され、問題だけが放り投げられている教科書は、こういう休校期間に入ってしまうと、読書の素材くらいにしかならないのだろうか?
細かいことをいうならば、受験に対応するトレーニングと授業を通じて身につけてほしい力はズレがある。
しかし、「国語の力は模試の点数」ということに偏りすぎているから、「教科書では勉強できない」というような暗黙の了解が生まれてしまっているのではないか?あまり好ましい感じはしないのである。
教科書に載っている文章をなぜ読むべきなのかということは、大人の視点からすれば色々な理由付けは出来る。大雑把に言うならば、それぞれの文章の特徴から文章の読み方そのものを理解する訓練でもあり、世の中で扱われる思想や問題意識を自分の問題としていくということくらいのことはすぐに言える。
しかし、こういう「理屈」は素材の文章だけで、生徒が気づくことがあるのだろうか?なぜ「水の東西」を読むのかということ、「水の東西」を読むことでどういう力がつくのか、そういうことをあの教科書の文章だけで納得して読み進めて、身につけることは出来るのだろうか?
だからもう一度教科書と向き合う
教科書の素材はやはりよく考えられていると思う。長さもちょうどよいし難易度も上手く配列されているように思うし、テーマのバランスの良さもよく心配りされている。
それだけに、教科書の扱い方ともう少し自分が向き合わないといけないような気がしている。
考えてみると自分の授業は色々な素材を教科書以外から持ってきて読ませて考えさせることは多いけど、教科書の意義や教科書を使って生徒自身で何かを発見して、学んでいくということをトレーニングできていない。
生徒の中に、教科書でバランスよく読んだり書いたりするヒントがあるということをもう少し意識を持たせてみたいなと思うのである。
そのためには、色々とハードルは高そう。結局、教科書の一つの素材が、どのような意義があるのかと言うことを説明できるのは、教科書全体、国語の授業全体で「こういう力を身につけたい」という意識があるときに、「この素材ではこういう観点が大切」と言えるからだろうと思う。生徒に「国語の力とは何か」「一つの素材をどういう観点で理解するのか」ということを育てないと、教科書を自覚的に使うというところにはなかなかたどり着きにくいだろうなぁ……。
いきなり大きなことは考えず、まずは自分が教科書の素材を構造的に整理してみることから始めてみよう。系統性を図にしてみたり観点別に整理してみたり……教科書の再編集、うん、ちょっと新しいことができるかもしれない。