自分のタイムラインで話題になっていた記事があった。
「ノート検定」学力アップにつながる? 京都市教委が試み : 京都新聞
全部、引用するのも問題あるだろうから、一部を上のURLから引用。
京都市内の小中学校で、児童生徒のノートを教員が検定方式で評価する「ノート検定」が広がっている。授業で使う基本的な道具を通じ、学習の狙いやまとめを理解できているかなど定着度を測る試みだ。板書の丸写しに終わらず、自分なりに工夫してまとめる大切さを学ぶ効果を指摘する声もある。
ノートやワークシートを手にした全校生徒が体育館に集まった。10月上旬、上京区の嘉楽中。生徒が指定されたページを開くと、教師が「学習の目当てを書けているか」「大切な内容は色を変えて強調しているか」などのチェック項目をもとに1~5級の5段階で評価した。
生徒のノートがちゃんと書けているかどうかということを評価指導方法らしい。
検定は小学校を中心に数年前から広がっている。10年前から活用している東山区の京都女子大付属小の長江柳子教頭(58)は「書くことは考えを深めること。授業で意見を発表できなくても、書いて残せる子どもはいる。教師にとって刺激になる」と強調する。発展的なノート作りを目指す学校もあり、南区の九条弘道小は本年度から「矢印や吹き出しを使い自分の意見を書き込んだ」などチェック項目を増やした。緩詰研二教頭(50)は「板書の丸写しでなく、重要部分をまとめられるようになった」と効果を語る。
確かに、今年の「教育科学国語教育」の6月号にも「ノート検定」については実践が紹介されていた。
ノートをきれいに書かせたいというのは、国語の教員に限らず、大人からすれば強い願いの一つなのかもしれないけど…
ノートをきれいにまとめる意味は?
「ノートをきれいに書くことに夢中になっていると成績は上がらない」という意見は様々なところでよく聞かれる意見だ。
にも関わらず、多くの授業の場面で「きちんとノートを書きなさい」という指導が行われることが多いし、考査ごとにノートを集めてノートの出来を平常点に加点する(もしくはできていないものを減点する)指導はよく行われている。
自分も初期指導の段階ではノートを点検して、あまりに勉強が上手くいっていないなぁと感じるものはコメントをつけて指導をするようにしているけれども、基本的にはそれほどノートを書くことには執着したくないとは思っている……とはいえ、授業のノートを残してもらわないと後から勉強を振り返ることができないから、勉強にならないよねとは思っている(というか、ノート指導をしておかないと、保護者からクレームを受けることもあるし…)。
どうしても自分がノートをきれいにまとめることが苦手(というか手書きが嫌い)ということもあって、きれいに書いてあるノートを見ると高く評価をしたくなってしまうのだけど、本末転倒というか無駄な作業をさせてしまうというか、指導や評価の仕方を間違えてしまいそうになる。
ノートはきれいにとらないとダメなの?
自分は手書きがあまりに下手だからノートをとること自体が苦痛であるので、きれいなノートでなければダメだとはいいたくはない。
ただ、ノートを使って勉強することやメモを取ったり下書きを書いたりということは、どこかで教えておかないと自然に身につくスキルではないという気持ちはある。
上で紹介した「教育科学国語教育」についても「思考を活性化する」というタイトルがついているように、書くことで思考が整理されたり見返すことで学習を積み重ねたりという効果が狙いになっている。
きれいなノートである必要はないけれども、記録を残しておくことやその記録を見返すことの意味は指導したいと思っている。だから、自分もよく勉強されているノートのコピーを見せるなどして、ノート指導はしていないこともない。
でも、どうしても選んで紹介するノートはきれいなノートになってしまうよね…。
ノートはとらなくてもいい?
そもそも自分が高校生の頃はまともにノートをとっていない。ノートをとるほどの情報が授業になかった…(笑)と言っては失礼だが、ノートをとる必要を感じなければノートを取らないのは当たり前なのだろう。
とは言え、授業をする側の立場になってみると、ノートをとっていない生徒に対しては心配にならざるを得ない。ちゃんと勉強しているのか、どうやってあとから振り返るつもりなのか、せっかく今、いいことを話し合っているのに…等々。それに後から読んでも意味のある情報を板書したり話したりしているつもりなので(笑)、まったくノートを書かないでいられると色々と心配になってしまう。自分は完全にアレだったけど(笑)
でも、言い訳がましく言っておくと、自分がノートをとるのが嫌いになったのは小学生の時に意味のない作業をさせられたことに対する恨みが大きい。
こういう板書ってどう思いますか?私にはノート職人の延長としか思えません。こういう綺麗な板書をするのも一種の才能だろうけど、あまり有益には思えない。 pic.twitter.com/2aEhRESN92
— 三乗根 (@cubic_root3) 2016年12月1日
こんな板書を自分は作れないし、写せと言われたらげんなりする。楽しげな授業になるかもしれないが、自分が生徒だとしたらノートを作ることは苦痛になるな…。
そんなわけで、ノートを活用させたいと思うけど、ノートを強制まではしたくないという気がしている。
ワークシートに頼りがちになると…
授業は板書やノートに限らず、ワークシートを使うことも少なくない。どうしても授業数が少ないと板書の時間がもったいなかったり指示を分かりやすく伝えたりするのにワークシートは便利なので頼りがちになる。
でも、ノートとワークシートは似ているようでやや機能は異なる。どうしても、ワークシートを使って授業をしていると「作業」をさせているような側面が強くなる。
学校以外で都合よくワークシートを渡してもらって、それを記入すればどうにかできるような仕事はないことを思えば、ちゃんとノートを使えるような指導はしたいと思う。
ワークシートはその授業が終わったら捨てられてしまいがちだけど、ノートは記録として残るからね……。できるだけ多くのものを残したいと思うのは授業者のエゴなんだろうか。
大村はまの学習記録はすごすぎて…
話はノートから少し離れるけれども、大村はまは学習記録という形で生徒に国語の授業の記録を残していくことをかなり丁寧に指導している。
このことを話すだけでえらく大変なことになるので深入りはさけるけれども、本来のノートの機能はこういうことなんだろうなぁと思う。筆まめに書くことを指導したり自分の学んできたものを振り返ったり、すべてが自分の生活の中で役に立つ能力を身につけるための訓練になっている。
自分も生徒に記録は書かせているけど……
やっぱり単元の丸ごとを残していく学習記録とは比べられないな…。
ノートをどうしていきたいか
最近、自分はほとんど授業で板書しない。というのもワークシートで指示を出していることが多いし、生徒の読み書きに授業の大部分を使いたいという思いがあるからだ。
その代わり、授業後に生徒に書かせたものを集めて添削してみたり単元を総括する文章を書かせたりしている。
でも、授業ではノートを使わせるようにしている。ちゃんとノートに題材を集めさせたり構想を練らせたりしている。また、できるだけワークシートを貼らせてなくさないようにしてもらったり(笑)。
どうしても一発書きで済ませようとする生徒が多いのだけど、思い付きの文章と練り上げた文章は違うということを伝えつつ、ノートで思考させることを伝えたいと思っている。
ま……ちょっと見通しがまだないです。