ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

担任の役割と責任の分界点

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愚痴です。聞くに堪えないことを聞いていることに絶えられなくなっただけの愚痴である。

担任の責任は

こういう言い方をすると冷たく聞こえるかもしれないが、中学や高校の担任には生徒の各教科の成績に対しては責任はないものだと自分は考えている。

もっと言うのであれば、授業でクラスがふざけてしまったり、生活習慣がだらしなかったりすることに対しても、担任が責任があるとは思っていない。極論をいうのであれば、教科ごとの生徒の課題や問題点を担任が知る必要はないし、教科で面倒を見ればいい話である。

もちろん、現実はもう少し融通を利かせて動いて行かざるを得ないし、担任は学級集団の管理者という役割からは逃れることが出来ない。

集団としてのクラスが落ち着きがなかったりだらしなかったりすることを放置することはできない。きちんと集団として「望ましい」あり方を指示していくことは担任の責任であると言えるだろう。

でも、だからといって次のような教員が口にする言葉に対しては徹底的にノーと言い続けざるを得ない。

特に気になるのが「あなたのクラスが悪い」という言い方だ。「クラスが」という言い方をしながらも、その裏には「お前の指導が悪い」というトゲが含まれている。とにかくクラスが問題を起こしたのであれば担任の指導不足が原因であるから、担任が責任を取れという理屈だ。

まあ…確かに生活面がだらしないことや態度が悪いことに対してちゃんと指導していく窓口として担任の役割はある。しかし、それはあくまで「窓口」でしかなく、本当に子どものことを成長させたいと考えるのであれば、個人の責任で集団の問題を解決させようという筋がどれだけ悪いかについて考えるべきだ。

わかりやすい例を出すのであれば、例えばある生徒が服装が悪いことを、職員室に戻ってきてわざわざ大声で言いに来る教員というのは少なからずいるが、担任に言いに来る前に、その場で指導してくれればいい話である。担任として指導があった事実や態度が悪かった事実を把握するのは仕事であっても、指導を丸投げされることには問題があると思うのだ。

こと教科の成績について「あいつの成績が悪い」だとか「提出物が出ていない」だとか言われても「いや、その責任は教科の仕事でしょう」と思うのです。もちろん、報告が上がれば協力するのだが、「お前が出させろよ」と言わんばかりに報告をされても困る。

それほど、「悪いこと」に対して誰かに責任を負わせたいのだろうか。むしろ、教員がお互いの責任を指摘するのではなく、協力して欲しいことを協力して欲しいと言えるような関係を作るべきではないか。その時に高圧的な「報告」はいらない。

普通でないことを認められないなら

「人間は腐ったミカンじゃない」とドラマだって言っているのに、「あいつがクラスの雰囲気悪くしている」という言い方は、現場の教員としての矜恃を疑う。

それが体調不良や精神的な不安定さが原因の欠席に対して向けられるようなことには、もはやその教員の人格を疑う。

これだけ「カウンセリングマインド」や「インクルーシブ」が話題となる時代に、精神的な不安定さや教室に来られない生徒を非難する教員の感覚を理解することは出来ない。いや、そもそも、そんな排他的な価値観を植え付ける態度を許せるのか。

苫野先生が以前、こんなツイートをされていた。

教室にいることは普通なのか。

戻れないことは「腐ったミカン」だというのか。

守るべきものは自分のクラスやその規律か。そのために、排他的な価値観に妥協するような態度を子どもに教えろというのであれば、教員なんていないほうがいい。

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