本日も休日出勤。あと二日で冬季休業なので2019年最後の休日出勤。本日の出勤は校務なのでよいのです。
休日出勤のついでに溜まっていた教科の仕事をコツコツと進めていました。
分掌で教科までたどり着かない
分掌の仕事を懸命にやるほどに、授業で掘り下げたいこととや準備したいことをやる時間がなくなる。それはそれとしても、身動きが取れなくなることがなかなかしんどい。
— ロカルノ (@s_locarno) 2019年12月21日
今年から分掌の負担が激増している。主に人員不足のおかげで何でもかんでもやっているし、外部との折衝が増えているので、物理的に自分の席にいる時間が減っている。
まあ…自分の今の仕事量は、主任クラスの人々に比べればマシなのだけど。
しかしながら、実際に自分の席にいる時間が減ると、明らかに教科のことに取り組む時間が減ってしまっているのである。我ながら、教材研究が雑になっているし、どこかで共有できるような新しい実践を作ることができていない一年である。
やってみたいことはあるのだが、その研究計画を立てて、研究費を狙ったりみたいなことも、準備が追い付かないために結局何度も見送ってしまっている。あぁ…せめて、この後、2月までに出すべき書類は出したいところなのだが…。
分掌の仕事は、自分一人の問題ではなくて、学年全体の動きや学校全体の動きに関わってくる仕事なので、後回しにすることができない。(まあ…放置したらしたらで、結局、どうにかするんだろうけど)
自分が自分の責任で何かするという仕事も大切であるが、学年や学校の持っているリソースを生かして、何かするということも仕事として大切であるし、自分の今の立場からすれば、他の人と協力しながらということは非常に重要なのである。
しかし、そうやって根回しのような仕事ばかりしていると、自分の授業の仕事が後回しになっている。今年になって毎週、日曜日に家で添削だとか大福帳のコメントだとかをしているのである。おかげで本は買うのだが、本を読んでいる時間もない。アウトプットばかりで全くインプットが進んでいないのである。
担任の業務…
担任も二週目。今年はずいぶんとラクをさせてもらっている自覚がある。単純に、物理的にクラスの人数が多くないので、様々な業務にかかる時間が短いのである。面談するのにしても早いし、書類を作るのも早いのである。こういう少しでも人数の少ないクラスを受け持つと、世の中の教育改革のほとんどは、クラスサイズを半分にするだけでだいぶ良くなるんじゃないかと思うのである。
別に、人数が少ないからと言って、抜群の教育効果が上がっているとはいえないのだけど、とにかく物理的に余裕があるので、他のことに手を回すことができるし、トラブルが起きても対応しやすいのである。
しかし、それにしても担任の業務とはどこまでなのだろう?
生徒が何かトラブルを起こすことは仕方ない。でも、それを普段の担任の指導のせいであるかのように言われるのはどうも納得いかない。もちろん、トラブルの処理の窓口になることは担任の仕事としては自分としては腹をくくっているところはあるが、トラブル自体の責任を責められても困ることは多い。
また、担任だけでクラスを回していると、個人的には息苦しさがある。いろいろな大人にかかわってもらいたいところだ。しかし、難しいのが「他人ではない」教員にとっては、他所のクラスに何か働きかけるのは憚られるようなところがある。基本的に教科担任制なので、いくらでもほかのクラスを教えることはあるけど、他のクラスで担任が嫌がるようなことは言ってはいけないという意識はある。
うーん…結局、これは「クラスは担任のもの」という意識の表れではないか。
全員が協力するなら…
全員が協力して何かできるのであれば、仕事はだいぶ減るような気がしている。
結局、最後は自分の分掌ではない仕事や自分が担任ではないクラスの仕事に関わろうとしないでいる人たちをどう扱うかである。
自分の仕事が終わればいいって言われると苦しいところだが、自分の仕事が少ないということは裏を返せば、誰かにしわ寄せがいっているということなのですよ…。