こんな記事がメールマガジンで流れてきた。
「魔の6月」かぁ…。
なんだか教室は毎月、危機を迎えているみたいだと感じます。
平坦な日々はない
最初に断っておくと、記事についての感想は特にここでは書かない。ただ、「魔の6月」という言葉から連想した話を書くので、別に上に紹介した記事についての評価は自分の中にはないです。
さて、その上で思うこととしては、学校という場はいつも気が抜けないということである。
例えば、4月は4月で「黄金の三日間」なんて言い方は根強くある。
5月は5月で連休明けの「5月病」が話題になるし、6月になったら今度は「魔の6月」かぁ……。
要するに、「変化」しつづける子どもたちを相手にしている以上、最初に仕組みを作れば後は平穏無事に自走する……なんてことはないのだろう。
人間関係も変わっていけば、見えてくる世界観も変わってくる。
嬉しいことが続けば良いが、厳しい現実に苦しむことも少なくない。厳しいことがあったときに上手く対応できるのが理想だけど、それほど上手くいかないことも珍しい話ではないのだ。
何も起こらずに、淡々と過ごすことができるのは、本当に奇跡的な確率なのだ。だからこそ、節目の行事を迎えることができるとほっとするのだ。年齢を重ねるほどに「何も起こらなかった」ことに重みを感じる。
担任の仕事
担任としての力量差によって、やはりクラスの落ち着きだとか安定感だとかには、やはりどうしても差が出る。極端に学級崩壊してしまうようなことはあまりないが、ちょっとした差は生まれる。上手く連携が取れている時期であれば、大きな問題になることはないけど、誰も彼も忙しい時期になると小さな差が大きなトラブルになる可能性も出てきてしまう。
誰だって、自分のクラスが安定して、落ち着いていてほしいと願っている。
だから、担任としては、できる限りの手立てを取ることによってクラスを安心できる場にしようと苦心するし、トラブルを未然に防ぐべく、子どもたちとは密に関わろうとしていく。
担任の仕事は「学級経営」と呼ばれるが、管理主義はやはり今の時代はかなり難しいだろう。担任の意図を生徒に行き渡らせるような指導のやり方は、よほどの力量が無ければ難しいだろうし、果たして担任が主役となって全面的にマネジメントする学級はよいものなのだろうか。
あれもこれもはできないからこそ得意分野で勝負するしかないと最近は思っている。担任としての自分が足りないところを積極的に助けてもらえるような、そういう開放性を準備しておきたいと思うのである。
なにもかも自分でやろうとするのは無理だなぁと思うのである。