一年間、複数のコースにまたがって指導をしてきたからこそ思うことがある。
自分が持っているクラスは、いわゆる特進クラスと普通クラスの二種類だ。こうやって二つのコースを比べてしまうと、色々とその違いに驚くことはあるけれども、そんなときにふと思いつくことがあった。
生徒の可能性を押しとどめていないか
一番、大きなこととしては「このクラスだからこのくらい」という大人の勝手な枠組みを子どもに押し付けてしまうのではないかということだ。
何も考えないで気を抜いていると「特進クラスはこのくらいできて当たり前」「普通クラスはここまでできれば上出来」というような先入観で自分が生徒を見ているのではないかということだ。
ピグマリオン効果だとかゴーレム効果だとか面倒なことを言い出すまでもなく、生徒の可能性を予断してしまうのは生徒の可能性の否定と何が異なるのだろう。
結果について予想をもって授業を動かすのは必要だと思うが、「この生徒はこのくらいだろう」と断定し、枠組みを決めてしまうのは中々傲慢ではないか。
生徒の間にも妥協がないか
そして思うのが、その大人の妙な偏見が生徒にも伝染しているのではないかということだ。つまり、「自分はこのクラスだからこの程度できればいい」というような思い込みや「この程度やっておけば他のクラスよりマシだろう」というような妥協が広がっているような雰囲気を感じる。
もちろん、お互いに妥協できないというようなチキンレースのような熾烈な争いがおこることもあるけど、でも、その可能性よりも妥協した雰囲気の方が大勢を占めるように感じる。当たり前だけど、特進クラスよりも普通クラスの方が圧倒的な大多数なんだから、雰囲気なんて多数派に流されるに決まっている。
そもそも少数の特進の踏み台のために普通クラスがあるわけではないのだから、序列を固定化するようなコース設定には違和感しか覚えられない。キーコンピテンシーやら21世紀スキルやらが問題となっていくこの世の中で「異質性」をできるだけ消去するような成績によるクラス分けをするのは、時代錯誤も甚だしかろう。たかだか十代半ばの子どもの学力程度の「異質性」さえも許容しない空間でなにができるというのだ?
そもそもクラスだって
この話を突き詰めていくと、学級だって担任が自分の裁量を振るい、好きなことを毎日生徒に投げかけ、そこのいる生徒だって固定されているから、段々とクラスの差が生まれてくるし、そうやって「あのクラスは」「このクラスは」という雰囲気が教員にも生徒にも生まれてくる。
こうやって考えてきたときに、生徒に対して一方的な偏見や期待を抱いてしまう原因が、人間関係が固定化されてしまうことにあるのかもしれない。
『教育の力』の中で苫野先生は「学びの<個別化>」を言っているけど、その感覚に実感を持つようになっている感じがする。
もちろん、学級の良さだって考えうる。
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ただ、その良さを活かすための諸条件に限界を感じるのも事実だ。
妄想もしたくなる
だから、こうやって考えている自分にとって、今、思うこととしては「学級を離れられないのであれば、できるだけ大人数でやれないか」ということだ。
最近の流行りでいえば、「少人数」であるけど、少人数の弊害は色々言われている。
人間関係が固定化されるのに問題を感じるだけに、大人数にすることでできるだけ人間関係のパターンが授業の中に増えてくればいいと感じている。