主語がでかいのはよくないとは思う。
まあ、読書記録として思うことを書いておこうというものであるので、お付き合いください。
ブラック化する部活動
最近、話題になっている本を読みました。
中高一貫で働いているので他人事ではない。
「しんどい」「休みたい」などと書くと、部活動はすべてにおいて、まるで生き地獄のように見えてしまう。だが、中学校や高校で生徒として部活動を経験し、それを振り返ったときには、むしろ逆の実感をもつ人が多いことだろう──「つらかった面もあるけれど、部活動はやってよかったと思っているし、学校生活のなかでいちばんよい思い出になっている」と。
こんな内容が冒頭から書かれているけど、教員にはどう見えるのだろう?教員以外の人にはどう見えるのだろう。自分としては「奴隷の鎖自慢」にしか見えない。
この奇妙で気分の悪い塊としての部活動が出来上がっている原因を、この本の中では「グレーゾーン」による「無法地帯」になってしまっていることにあると説明している。
必須ではなく自主的な活動にすぎないのだけれども、学校教育の一つとして明記されている。この中途半端なグレーゾーンに、さまざまな問題や矛盾が押し込められている。グレーゾーンのなかは、無法地帯である。
無法地帯という言葉はだいぶ踏み込んで書いた表現であるというイメージだ。部活動で権力を握っている声の大きい人は、自分がやっていることについて「正しい」と思い込んでいる。
そうです。今年に限らず、毎年います。イベントみたいな感じ(笑い)。
生徒がやめていくことをこうして揶揄して話せる時点で感覚がおかしい。こうやって悩むそぶりも見せずに、生徒の方が悪いと言えるのは自分が正しいと思っているからだろう。
厄介なことにこういう思考の人は声がでかい。「生徒のために」だとか「教育として」だとかを振りかざして、絶対に自分の意見を折らないというシーンは職員会議あるあるなんじゃないかと思う。
なるほど、部活動の教育的効果は認めよう。しかし、そのほかの教科教育や学校教育が部活動を理由に無条件に後回しにされる理由はどこにもない。
正直、生徒に主導権を委ねた授業を、いわゆるアクティブ・ラーニングをやろうとしたときに、部活動で平気で10人単位で部活動の大会を優先されて公欠されたら授業そのものが不成立になる。しかも、その時々の成果は別に黒板に書いた内容ではなく、非認知的な能力も重視していくのだから、あとから公欠分を補習すればいいってものでもない。にも拘わらず、部活動側から言われることは、「先生方のご配慮」だとか「自分で取り戻せ」だとか、その程度のことしか出てこない。
なるほど、部活動の教育効果はある。で、その教育効果は授業よりも高いものなのでしょうか?
教員の矜持を奪わないで
部活動の話をしはじめると、本書で紹介されているが、以下のようなコメントが飛び交う。これも部活動あるあるですね。
そういえばTwitterで、部活動顧問を辞退する先生たちを快く思わない先生が、「部活動を担当しない教員は、給料を減らせ!」と憤っていた。その理由は、「教育課程内の活動なんだからやるのが当然で、それをやらない奴は給料を減らすしかない」ということであった。
本書でも述べられていますが、部活動は教育課程外ですから、この理屈は通らない。理屈の通らないことで、罵倒されてまで素直に従い、ベターな対応策を考えようとしている教員が大勢いることは、本当に頭が下がる。教科の専門性でアカデミックがうんぬん言っている本書の後半の座談会は的が外れている気がするが、それでも、教員の専門性をはっきすべきところは部活動の指導歴ではないのだけは確かである。自分の専門性を真剣に考えて「部活動はやりたくない」といったら、教員失格と言われるのでは割に合わない。
次の話は自分にとっては驚愕だった。
練習試合には、隠れた機能がある。それは練習試合によって、部活動顧問どうしが結びついていくという機能である。たとえば、若手の教員は、当該部活動に従来からあるネットワークや、先輩教員らの紹介によって、部活動を通じて新たな顧問に出会っていく。職員室を超えた新しい世界がそこにある。
えぇ……部活動をやらせているから、学校の外にある研究会やサークルに参加できないだけでしょう?相手の逃げ道をふさいでおいて、そのコミュニティがあたかも優れたようなものとして信者を増やしていくなんて、カルト宗教だろう…。
思い返せば、職員会議で「部活動で知り合った他の先生は…」なんて得意げにいう人が多かった。しかし、そんな「世間話」で学校の教育方針や指導方針が決められていいのか?どう考えても、その休日の練習試合を潰して自分の専門の研究会なりサークルなりに参加したほうがいい。研究会などを紹介しても「部活動があるから無理」と言われることは数多くあるのに、部活動の練習試合の世間話は権威がある情報のように言われたらかなわない。
やっていることがめちゃくちゃなのです。自主的な活動と言えば聞こえがいいけど、実態は、教育よりもその競技等の方が好きなだけで教育に興味がない人が、部活動にエネルギーをかけてやりたい放題やっているだけである。一番、苦しむのは全部やろうとする人です。
人それぞれ違って、その多様性がいいという意見もあるかもしれないが、選ばなければいけない状況に立たされている現場に対しては何も答えていないに等しい。やるならやるで徹底的に教育効果を説明すべきだし、やらないのであれば徹底的に部活動の矛盾点を突いて、教育活動を守らなければダメだ。グレーゾーンが今の結果である。やるなら徹底的である。
対話しあう覚悟を
徹底的に話し合わなければいけない、そんな話が書いてあったなーというのが、以下の本だ。
学校では「多様な意見を尊重しよう」とよく言われます。人の考え方は人それぞれ尊重されるべきですが、すべてが同じ価値を持っているのではないという点は見落としがちです。「正しさ」の追究は、それ相応の手間と時間がかかるのです。(P.36)
「多様な意見を尊重」というのが既得権益の確保の方便になることが多いし、「多様な意見を尊重」という人ほど、権力が強い立場から物をいう。
ま、それは置いておくとしても、学校という場においては「対話」ということが切実に不足しているのは間違いないでしょう。
それは部活動問題に限った話ではない。教育内容についても生徒に選ぶ権利、相談する権利は殆ど与えられていないし、校則だって生徒とは無関係に学校の評判のために決められている。
何かをおかしいと思っても、「そういうものだから」という固定観念で、対話することすら拒絶する空気ができていないだろうか。
なお、上の『質問する、問い返す』は最近の教育事情について知るにはよい本です。『学び合い』の事例やバカロレアの事例、P4Cの事例など、かなり最近のはやりを丁寧に押さえています。岩波ジュニア新書というレーベルから出ていることが謎なのですが……。
私立はどうなる?
なお『ブラック部活動』は公立学校の事例です。
公立学校以上にブラックなのは私立ですし、私立がやめなければ、保護者が部活動を減らすことには納得することはないでしょう。
私立こそ「嫌ならやめろ」というかもしれませんが、私立の採用事情(三年で雇止め)などを見てもらえれば、私立の子どもにとって良くない教育環境になるわけです。全員が公立学校にいけない以上、私立の環境も蚊帳の外にして論じてもらいたくはないのです。
ま、自分は行動する気はありません。口で言うだけです。