定期的に悩むのが評価。
この前のリーディングワークショップの評価の話を聞いても、返す返す悩む。
職場でも「ルーブリックを作れ」とか言い出されたものだから……。
ルーブリックが先走る…
アクティブ・ラーニングの流行と併せて、機を見るに敏な人々はここに来てルーブリックだとかポートフォリオ評価だとか言い出している。
ここで紹介されているルーブリックは……質的に問題があるし、そのルーブリックの制作の手順が見えてこないのもよくない。
アクティブ・ラーニングだからルーブリックが必要という議論はちょっと雑だと思う。アクティブ・ラーニングだからルーブリックが必要なのではなく、アクティブ・ラーニングによって「真正の課題」が授業に取り入られるようになったときに、生徒が行うパフォーマンスを質的に評価するためにはルーブリックが有効なのであって、アクティブラーニングをやったところで、問いたいのが従来の認知能力の側面であるのであれば、ルーブリックは必要ない。せいぜい、チェックリストである。
ルーブリックの評価については、以下のサイトが分かりやすい。
重要なのは、実際の生徒の作品やパフォーマンスの例に基づいて(もしくは生徒のパフォーマンスをできる限り多く想定して)作られることである。ルーブリックの作成を通じて生徒の実態を把握し、教員同士で認識を共有していくことに意味がある。
こうなってくると本当にルーブリックなのか?それっぽい評価語を並べているだけでしょう?と思う。そもそも優劣をつけて選抜するための試験の評価にルーブリックはふさわしくないのではないか?
石井英真先生は『新しい教育評価入門 -- 人を育てる評価のために (有斐閣コンパクト)』の第一章で
「真正の評価」論は、教育の質や成果の追求と参加的・共同的な学習とを統一的に実現する教育実践や目標・評価システムを構想する可能性を提起している。ただし、そうした可能性は、普遍性、一元的な価値を前提とした垂直的発達、目標追求の効率性への志向性が強まるとき、容易に教育の標準化や形式化に陥る。(P.47)
という指摘を行っているが、入試の選抜に使うという発想は「一元的な価値を前提」として優劣をつけるという点で、まさにこの問題を孕んでいるのではないか?
ルーブリックの評価の問題点として、成瀬先生は上記の記事の中で
- ルーブリック評価によって全体を適切に評価することの難しさ
- 事前に示された基準によって評価するということ自体が学生の「主体性」や「自律」といったものを奪っているのかもしれない
という二点を指摘している。
ルーブリックを、生徒の実態把握を置き去りにして、とりあえず使ってみればいいやなんて生徒に出したら、害悪な側面の方が多いのではないかと強く危惧する。
まさにパフォーマンスを求めるような課題において、生徒の実態から問い直されて改善されるという可能性を持たないルーブリックを押し付けたら……。
外へのパフォーマンスにばかり目が行っている状況では、ルーブリックなんて作れないんじゃないかな…。