新学期の授業がまもなく始まりますが、授業時間数をカウントしているとなかなか危機的な時間数……。
無いものはない
現代文の週当たりの授業数は2であり、どうしても授業数が少ない。
それぞれの定期考査までの授業数が、片手に収まりかねないくらいの数字になるのだが……。果たして、そうなってくると考査をする意味があるのか?考査をそもそもやる意味があるのかどうかという議論をしてもいいのだろうけど、たぶん、自分一人が騒いだところで、もう数日後に始まる授業には間に合わない。
手段として考査を期末だけにする…くらいの落としどころはあるのだけど、それはそれで勤務校の校風として、現代文という科目を軽視していいというメッセージに捉えられかねないのも悩ましいのである。
授業時間を授業変更で確保するという荒業は毎年行っているところではあるけど、これは結局、自分が一日に行う授業数を増やすのでフィードバックが追い付かなくなったりするので、結局、禁じ手ではある。本質的な解決ではない。
授業の概念を問い直し続ける
結局、国語の、現代文の授業で何を教えるのかということをギリギリまで絞り、焦点化しなければならないのだ。
どうしても高校の教科書を目の前にして、文章を改めていると、あれもこれも教えたいということが出てきてしまうし、「この文章でこのことを触れないと苦労するよなぁ…」ということが次々と出てきてしまって……なかなか割り切れない。
でも、結局、思い返せば、こちらが親切心で教えたことは残っていないで、結局、自分で時間をかけて考えたことが記憶に残っているものである。教えた知識も受験勉強で必要に迫られて読んだら一発で覚えた……なんてことは枚挙に暇がない。
授業の記憶は、じっくりと必然性を持って向き合ったことばかりである。
だからこそ、何を触れるべきかをもっと思い切って捨てていいのだろう。その「捨てる」ということに割り切れなさがある。
例えばこの時期の定番教材で「水の東西」があるけど、何をどこまでやろう?
指導書を見れば、比較文化論だとか大仰なことから対比の構造を細かく捉えさせる課題があったりだとか、山崎正和の仕事についての細々としたことが紹介されいるだとか……ニンニクヤサイアブラマシマシなみのボリュームである。
こんなにたらふく書かれている資料があるのに、本当に少しだけに絞ってしまっていいのだろうか。なかなか割り切れないのである。
でもなぁ……本質的には、追究すべきことはシンプルなんだろう。その潔さが持てないのだから混乱しているのである。
読ませる量を増やしたいが…
文章を読んでもらうこと自体がなかなかハードなのである。じっくりと読むよりもやりたいことがある生徒たちに、じっくりといつまでの読んで考えるという習慣を持ってもらうためには何が必要か。
焦点を絞っていきながらも読ませる量は増やしたい……二律背反な感じもする。読む文章の量を減らせば、簡単に焦点は絞れる。
しかし、それでは高校の学びとしてどうなのか。もっと粘り強く読み、大量に読み、でも、使えるものは少ししかないけど、その豊饒なムダに支えられるものがあるという自覚に価値があるのではないか。
さて、何を目指して授業をしようか。