全国大学国語教育学会が行われていますね。
自分もぜひとも行きたかったのですが……まだ、自宅で仕事をグダグダこなしている状況なので、とてもでないけど事故りそうなのでいけそうにない。
こうやって仕事に追われて自分の持っている知識だけをあり合わせて授業していくことになるのが、自分を枯れさせそうで不本意である。
勉強しないで授業はできない
大前提として勉強しないで授業なんてできない。
いつだって自分の想定外をしてくるのが生徒である。生徒の能力を十全に伸ばそうと思うのであれば、できることをできるだけ丁寧に勉強し、蓄えていなければいけない。
これは自分の矜持であるので他人に求めるものでもない。
単純に国語科の偉大な実践家たちが、大村はまをよい例に、誰もかれも鉄人並みの体力で勉強している。
とてもではないが真似できないと思うのだが……それでも勉強して、自分の教室で自分の勉強不足で生徒が行き詰るようなことがないようにしたい。
一人一人が違うから、一人一人にできるだけ近づけるような自分の可能性を広げておきたい。
自分一人で授業を作るのはしんどい
色々なことをやらないと、授業が行き詰る感覚はある。
自分が手を抜いたことはちゃんと生徒にばれるし、生徒の活動が行き詰ってしまうのも想像に難くない。単元の立て方に無理があれば、それは間違いなく破綻する。
だから、本当に毎回授業をどうしようかと悩むのはしんどいし、時間切れギリギリまで悩んでまともな単元が作れるかどうかとのたうち回るのである。それでも上手く行かないときは上手く行かない。授業で自分が一斉授業してアリバイ作りしたほうが満足度自体は高められそうな気がしている*1。
しかし、そうして取り繕っても、力が伸びていかないのだ。自分の教えている生徒たちは真面目で人が好い。それだけに、きちんと一斉授業すれば話をよく聞く。でも、そこから先、自分でどう切り開くかという力は強くないのである。
そういう力のなさはなかなか顕在化はしないとも思う。入試だって上手くやれるだろし、大学入ってからも……人並みには問題はないだろう。
でも、自分自身で何かを決めて考えるという体験がない時に、子どもたちがどこかで行き詰るのではないか……そんな思いはあるのである。それに自分のことを自分で決めるという体験があまりに少ないことも問題だと思っている。
大人が作り出した詰まらなさに子どもを安住させ、何も自分で決めないことをラクだと覚えさせたくはないのである。
でも、そんなことを毎回、考えて授業を作っていたら、恐ろしく辛い。
それを一生涯やっている大村はまはやはり化け物であるとつくづく思うが……。
こんな仕事を一人ではできない。
凡人は誰かと学び合って、刺激を受け合わなければ無理だ。
そういう学び合うだけの関係になれる仲間を自分の手近なところで見つけようとすることに無理がある。だから、身銭を切って外に出かけていかなければいけないこともある。それ故に、こういう学会シーズンに、仕事の割り振りのいびつさのために、出かけていけないことは痛恨に思うのである。
本を読む、人に会う、発表する
授業を作る、よい教え方を学ぶ、生徒を活かす……いずれにしても自分で何をやるか腹を決めて、時間を十分に投資して取り組まなければいけないのである。
本を読むことも中途半端ではダメである。いくらでも探せば先行実践も研究も出てくる。無限に出てくるからこそ、諦めずに自分の問題意識で追いかけなければいけないのだろう。一冊、二冊読んだくらいで何かを見切ってできるつもりになってしまうような裸の王様になることは避けたい。
人に会って話を聞くべきなのである。環境が変われば、現場が変われば、見える景色は全く異なるのである。それぞれの現場が見えている考えをすり合わせていく、ぶつけあっていく場は必要なのである。
まあ…外に出て行く前に中で四苦八苦すべきだろうけど。
そうして毎日のたうち回っていることを、誰かに見てもらうことも必要だろう。誰かに見てもらわない限り、どんどんと自分勝手になっていくし、傍目八目、自分の授業の本質を見抜いて、適切に批評してくれる人は自分ではない誰かなのだと思う。
内向きに、ラクな方に、そうやって凝り固まっていくのは避けたいな。自分の教えたいことを教えたいなんて思ったことはない。自分たちで、生徒自身が考えたいことを考えるための授業をしたいのである。
まあ…そのためには、世の中の考えるために十分に整理されて強力な方法は教えなければいけないし、自然にのびのびとやるために不自然なことも矯正しなければいけないのだけど。ストレッチすることは決して自然なことでも気持ちいばかりでもない。
そんな色々なバランスに悩みながら、また明日から授業をどうするかのたうちまわるのである。これが一生続くのだ。
*1:効果的かは別問題であるし、自分の授業の質が高いとも限らない。