次年度の色々なイベントの計画を学年で相談しているときに、学習指導要領の話になった。私立の学校だとかなり珍しいケースである。
そこで話題になったのが、「学習指導要領をどう読んだらいいのだろう?」という話である。
私学でも学習指導要領は無視できない
どうも、勘違いをしている教員がいるように感じられるのですが、学習指導要領は私学であっても無視して好き勝手なことはできない。
学校教育法 第33条
小学校の教科に関する事項は,第29条及び第30条の規定に従い,文部科学大臣が定める。
※第33条は小学校であるが、これが中学校以外の学校にも他の条文で準用されるので、すべて話は
学校教育法施行規則 第52条
小学校の教育課程については,この節に定めるもののほか,教育課程の基準として文部科学大臣が別に公示する小学校学習指導要領によるものとする。
→小学校学習指導要領 (中学校,高等学校,特別支援学校)
要するに、「学校教育法」という学校で教員が子どもを教える根拠になっている法律に縛られているのである。
学習指導要領については、いくつか裁判の例もあり、大学の教職課程で習うことも多いが、結論としては、まあ、「大まかな基準として大切にしなさいよ」という感じなのである。
以下の文科省のページにもあるが、
「全国のどの地域で教育を受けても、一定の水準の教育を受けられるようにするため」のものであり、「それぞれの教科等の目標や大まかな教育内容」(下線強調は引用者)である。
なかなかこのあたりの話は、教育のシステムに色々と関わるので、難しい。
個別最適化の時代というのに、こうなると履修主義的でなかなか修得主義とはならなかったり……まあ、色々と面倒な話は多いのである。
話が逸れたが、つまり、学習指導要領を勝手に無視してないがしろにすることは、教員として子どもに教える以上は、許されないのである。好きなことを教えるのであれば、一条校ではない教育機関を選ぶことになる。
学習指導要領そのものを読んでも…
意外と知られていないのだなぁと思うのが、学習指導要領そのものを読んでいても、なかなかどうしたらいいかはわかりにくいということである。
大学の教職課程でやっているんじゃないかなぁと思いつつも、実際、授業を考えたりカリキュラムを考えたりするときには、学習指導要領解説編を読むことが多いのである。
高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 総則編 ―平成30年7月 (高等学校学習指導要領解説)
- 作者:文部科学省
- 出版社/メーカー: 東洋館出版社
- 発売日: 2019/01/26
- メディア: 大型本
※文科省のサイトと紙で販売されているものは微妙に表現が変わっていることもある。なぜなのでしょうね?まことしやかな噂を聞いたことはありますが…。
もう少しいうのであれば、学習指導要領は学習指導要領の改訂までに、色々な議論が細かく行われていることがあり、そのような議論は答申などで示されており、実際にはそれらの答申などを読んで、なぜこの文言や内容が出てきたのかという背景まで踏まえて理解していくほうがいいのだが………そんな面倒なことやってられっか!というのが正直なところである。
実際は、色々な官製の研修で、現場に大枠や背景が口伝されていくような節がある。
しかし、これが私学となると、そういう機会も公立に比べて圧倒的に少なく、むしろ自分から情報を取りにいかないと、耳にしないままに年を重ねてしまうのである。
意外と難しいのですよ、本当。自分の専門領域でないと、日常の日本語と同じくらいにしか考えないので……。
例えば、高校の国語科の学習指導要領解説編の「現代の国語」の部分に、
国語分科会報告も踏まえ,正確さとは,互いにとって必要な情報を間違いなく伝え合うことであり,分かりやすさとは,互いが十分に情報を理解できるように,表現を工夫して伝え合うことである。また,適切さとは,場面や状況,相手の気持ちに配慮した話題や言葉を選び,適切な手段を通じて伝え合うことであるが,同旨を国語分科会報告では「ふさわしさ」としている。敬意と親しさとは,伝え合う者同士が近付き過ぎず,遠ざかり過ぎず,互いに心地良い距離感に立って伝え合うことである。
正確さを求める余りに分かりにくくなったり,分かりやすさを優先する余りに正確さを欠くことになったりすることがないようにするとともに,場面の状況に応じた言葉の特徴や役割をもたせることができているか,敬語を含む待遇表現や親しさを示す表現が相手との心理的な距離(親疎の関係)を適切に保てているかに留意することが求められる。
何気ない文章であるけど、例えば「伝え合う」という言葉は「伝え合う」であることに国語科教育史の背景があるし、敬意と親しさが並ぶのはポライトネス研究が背景にあると思われる。「お互いに心地の良い距離感」というのも同じ。
ポライトネス 言語使用における、ある普遍現象 Politeness:Some Universals in Language Usage
- 作者:ペネロピ・ブラウン,スティーヴン・C・レヴィンソン
- 出版社/メーカー: 研究社
- 発売日: 2011/08/20
- メディア: 単行本
「敬語を含む待遇表現」というのも、やはり近年の研究の成果である。
と……まあ、こんな調子であらゆる分野、あらゆる言葉に配慮と意図といろいろな利害関係と……色んなものが盛り込まれているのが学習指導要領などの文言なのである。
安易に、文字面だけ揚げ足取りしていてもあまり意味がない。
こんな面倒なものを何が何でも守るのか?
こんな面倒なものを守らなければない!と言われたら、もうノイローゼになるか反発するか、バカバカしいと切り捨てるか……いずれにしてもクソ真面目に全部やろうとはしないだろう。
そもそも学習指導要領は金科玉条ではない。上で引用したとおり「大まかな教育内容」なのである。
要するに、なにか自分の授業をするときに、自分の授業を実践する根拠として参照することになるが、自分の授業のコンテンツやカリキュラムそのものを決めて縛り付けるものではないのである。
だからこそ、学習指導要領については、その内容を読み解き、自分の授業をどのようにやろうかと積極的に考えていく必要がある。つまり、学習指導要領はかなり自由に読み解くことができるし、裁量は教員や学校に委ねられているのである。
ただし、根本的に「ぼくのかんがえたさいきょうのきょういく」をやっていいということではない。
学習指導要領を読み解けば、かなり自由にやれること、工夫できることの余地は大きく、裁量も大きい。だからこそ、自分の授業と学習指導要領の関係を明確にして、正当性のある授業を作りたいところである。
まあ……新学習指導要領はガチガチに書き込まれている感じはあるので、過去に比べて、授業の幅が減る気もするが……それでも、裁量は相当に現場にある。
また、ある意味で、学習指導要領の内容をきちんと体系的に組織しようとすると、授業の質は保証できるものになりやすい。評価規準を決め、授業の構造を作り、評価をきちんと対応させて……ということを詰めていくと、授業の構造も理解できてくるようになりやすい。だからこそ、教職に就いたばかりのころほど、正しい指導案を書けるように訓練したほうが良いと思うのである。
学習指導案を書いたことないわ!とドヤ顔するのもどうかと思うのは、授業を構造的に見る訓練が甘いのではないかと疑わしく思うからである。
試されるのはいつだって
こんなことを書いていると、文科省に言いなりの長いものに巻かれろというタイプの人間だと思われるかもしれないが、そういう話ではない。
法的な問題であるし、実際、学習指導要領を読み解いて授業を考えること自体が、授業の研鑽になるという話である。
ガチガチに縛られたように捉えて、授業の工夫をしなくなるのは、あまりに勿体ない。
教員が少し踏み込んで考えれば、もっと自由に色々と面白いことができるのだろうと思うのである。