ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

少し先の未来を話し合う

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三月も下旬に入りまして、本格的に次年度の準備が進んでいます。会議で次年度の行事予定が決まりつつあるので、次は自分の身の回りのことの準備を進めていくことになる。

授業のことや学年のこと……一人では決められないし、周りを巻き込むような立場になってきたので、色々な人と話すことになっている。

ビジョンをどこまで持つのか

次年度の授業をどうしたいのか、学年をどうしたいのか、そういうことを考える時期である。少し先の未来を考えて、次の行動を決めるときには、一種の決断を伴うことになるが、その決断の根拠をどこに求めればよいのだろう?

生徒の未来がどうなるのか、どのような授業をすると生徒が成長するのか、どのようなニーズに応えなければいけないのか……そういうことを考えるときに、なかなか根拠のあることだけで議論が進みにくいのだ。

そして話し合っていてよくないと感じるのが、これまでの慣例や一つの自分の実体験を普遍的な根拠のように論じてしまい、そして、その根拠を強固に手放せないということである。

その気持ちもよく分かるので、一方的にむげにも出来ない。日々向き合っている現場から感じる気持ちを無視しては協同して仕事は出来ない。

とはいえ、一方で今の眼前にあることから自由になって、少し先の未来のことを考えなければ、予測しなければ緩やかに機能劣化していくことになる。制度疲労とは目に見えない形でがんじがらめにしてくるのである。

どんな学校にしたいのか。どんなことを生徒に伝えたいのか。

そういうことをもっと語り合ってよいと思うのである。ネガティブにあれができないこれができないでもなく、あの学校はああやっているとかでもなく、自分が何をしたいかを語るべきなのである。

そのためには思い切りもどこかで必要なのだ。その思い切りをお互いに大丈夫だと支えられる関係性が職場にあってほしい。

楽しみを探しつつ

楽しくないとやってられないということに尽きる。本当に○○大学に何人受かったとかやっていて楽しいのかな?と思うことが多い。生徒の可能性や進路を受験科目と偏差値で輪切りして論じていて何が楽しかろう?

自分で好きなことに夢中になってくれるような生徒の姿を見る方が楽しい。その好きなことに夢中になってもらえるために、好きではないことにどう向き合う力を育てるのか……。

前例がなくてもよいではないか。

余所の学校がやっていなくてもよいではないか。

自分たちが、自分たちの学校で何を教えるかなのである。

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