一学期が本日で終了。無事、事故無く、誰か欠けることなく一学期を終えることが出来て良かった。祈るような気持ちで毎日を乗り切った訳だ。
祈ってばかりでいいのか、という気持ちもしないでもないが、乗り切ったことで一安心である。
また、再開できるよね?
生徒と解散してからがらんどうの教室を見て思うのが、ちゃんとまた教室に生徒が近いうちに戻ってこられるのだろうかということである。
コロナの感染者の数をみると、今日もかなりの数が出ているのが心配である。また、緊急事態宣言やそれに類する要請がくれば、この教室がずっと空白のまま開いてしまう。生徒のこない教室の薄ら寒さはもう沢山である。
もちろん、現実には登校が再開できないと言うことも十分に考えなければいけない、Withコロナの時代なのである。
暦の上では立秋だけど、ここから実際は気温が上がって厳しい残暑……残暑なのか?を迎えることになる。
生徒もなかなか疲れが取れないかもしれない。これまでの休みは一ヶ月あったけど、これがかなり減ってしまったときに、生徒の体力がどうなるかが心配である。…いや、生徒よりも自分の体調の方が身体の中の血管とか切れそうで怖いけど。
何のための学校なのか
たまたま、本日の哲学カレンダーのお題は「学校は必要なのか」というような内容だった。
本当であれば、迎えるはずのなかった8月7日。生徒にとっては休みを大きく削られた中での、今日という日である。
また、コロナによって、実際に学校に登校できないという時間を大きく過ごした生徒たちにとって、学校が通うべきものという自明に思われていた前提が崩れているのである。
保護者面談でも、ちょくちょく「学校にICTのまともな環境はないのか」「企業がこれだけ対応したのに学校はどうなのか」というような話題も出てきている。保護者がテレワークを経験しており、本当に危険を冒してまで通うべきなのか、もっと学校は工夫すべきなのではないかという意見を持っているご家庭もある。
合理的な配慮が本当に学校という場でなされているのか……結局、生徒たちが文句も言わずに登校してきているのは、選択肢があることをアンフェアに隠しているからではないのか。
配慮とは、フェアに選択肢を提示してから行われるものであろう。登校しなくても代替手段に責任を学校が持つからいいのだよ、と言えないことに、厳しさを感じるのである。