こんな記事を教えてもらった。
この本の書評ですね。
基本姿勢
この本の書評…というか紹介はちょっと前にしました。
この時に歯切れの悪い書きぶりをしていることから分かる通り、あまりこの議論に与したくない…という気分が強くあるのです。
だから、今回もあまり歯切れのよいことを書けないという自覚がある。まあ…あまり突っ込まないでください。自分にとって語りにくいことなのです。教育学部を経て教育の現場にどっぷりと使っている自分にとって、非常に語りにくい問題のひとつなのです。
根拠がないと言われるとツライ
こういう教育についての本について、教育の外側から書評がつくことは珍しいので、こういう感想を目にすること自体は新鮮な気持ちになる。
分かってはいたけど、なかなか手厳しい。
特に厳しいと思うのが、
言及されている内容がほとんど個別のケースの積み重ねによるものであって、これといった論拠、根拠がないものも多々並んでいます
という指摘である。
確かに、本書の場合、センセーショナルなタイトルをつけている割には、本文の議論には比較的ざっくりとした議論ではあるのだけど、一応、参照可能な参考文献は示されているので、
それは単に「あなたの感想ですよね」
と、いうほどでもないかなぁ…という気もするが、そもそも、教育業界の語り方自体が批判にさらされていると見てもいいかもしれない。
おそらくは教育の現場から乖離した我が国の教育学の在り方の問題の見本市的なところもあります
とは、言い過ぎだと思います。むしろ、教育の現場の鬱憤と自信の喪失を背景としてこの本が書かれていることから考えても、「教育現場から乖離」ではなく、「教育現場に要求したいことからの乖離」の方が適切だろうと感じます。
また、「あなたの感想ですよね」とおそらく感じる部分は、本書の後半の座談会の部分なのだろうと思う。もちろん、座談会なので、厳密な論証を期待するものでもないことは前提に読んでいるのでしょうが、そこで使われている言葉が、やはり教育業界独特なことが強く前面に出てしまっているのですよね。「語り」とか「葛藤」とか…そういう言葉遣いとかね。
実際問題として…
つまりは、いまの「教育改革」が教育の現場から乖離し、子どもたちが健やかに人間的な存在として貴重な若い時間を学校で過ごすことに重大な意味を持たせるためにどうすればいいのかという議論が欠落したまま、合理性、効率性だけが追及されてテクノロジーが追加されることへの警鐘です。
この指摘もよく分かる。
じゃあ、この先どうするのかということは、この本を読んでも見えては来ない。それはそのとおりで、そもそもが今ある教室の実践に自信を取り戻してほしいということから書かれているので、代替案自体が今あるものであり、先行の実践の中にあることであるからである。今ある教育が何を支えるかをもっと慎重に捉え直すべきという話なのだから、「今とは違う教育」という代案は本書からは出てくる余地はないだろう。
つまり、完全に議論がかみ合わないのである。これは読み手の責任ではなく、書き手の責任だろう。分断を煽るような書きぶりになっているのに、その批判に耐えるような周到さがない…ということが厳しい。
例えば、「未来の教室」事業に対する目線が非常に厳しいのだが、「未来の教室」から提案されていることに対する検証は弱いし、意図的に悪く解釈しているような印象を受ける。
本書でも紹介されている
や
などの話は、自明で当たり前に共有されているという前提で話しているきらいはある。評価すること、個別化することの危険性の指摘は本書が指摘する通り、一歩踏みとどまって議論する余地は大いにある(例えばICT化で学習履歴が蓄積されるけど、それがClassiを通じてベネッセにいいようにビッグデータとして使われるのって気持ち悪くないですか?という話)。
ただ、テクノロジーが強力に人間一人が、教員一人が出来ること以上の効果をもたらしうることが現実に見えてきている時点で、テクノロジーの忌避という形で対策をとっても問題の後回しにしかならない。
一部の教員は溜飲を下げるだろうけど。
実践する人は実践するしかない
随分、大きな話が上滑りしているなぁと、現場の人間は現場で自分の実践をするしかないのです。
ちょっと、先の「出口」を考える努力をしながら…。教育の内側からも外側からも色々なことを言われ過ぎなのである。そして、信仰上の違いで対立してばかりなのである。