どうしても自分の主観などと決別できないから、常に色々なことを問い直すことになるが、それも億劫になってしまう性根よ。
授業とテストの点数
テストで点数を取るためには、テストならではの「お作法」がどうしても必要である。それは、採点側の都合と何となく慣例的に「こうするものだ」と積み重なってきたものの成果であるから、好き勝手なことをやらせる訳にもいかない。
卓越した答案は評価される可能性はあるかもしれないが、何千枚と採点することになるので、あまり個性を出すのも得策には思えない。
基本的には慣例に大人しくしたがった方がよいのである。まあ、その慣例も無体なことはあまり言っていないし、可読性はそれなりに高いので、文章を読み書きするという意味では、それなりに効果はあるだろうと思う。
とはいえ、国語の授業の目的は別に国語の入試問題で点数が取れることではない。
ただ、勤務している責任として、きちんと点数を取らせきる指導が必要なのである。うーん……毎度、同じことを話していることを考えると、こういう話こそ動画にしてしまって、何度も利用した方がよい気もするが、結局「動画を見ておけよ」と言ってもなかなか見ないし、ライブで印象強く伝えてしまった方が行動を喚起しやすい気もするので、難しいところだ。
あと、何度言っても素直に言われたとおりのことを実践できる人の方が少ない。まあ…全ての人間が同じ認知の仕方をしている訳ではないので、全く同じ…なんてことは出来ないのは仕方ないけど、話だけ聞いて結局、全部我流のままだと……なかなか厳しい。誰が説明しても同じことを素直に伝わらないと……。
扱う素材のバランス
自分はどうしても文学的作品の扱いを軽くしがちである。自分自身が文学に疎いので使えないというのが正しい。
もちろん、標準の時配を守るようにはしているが、その時間配分では実質的にはほどんと何も出来ないよなぁ……などと思う。とはいえ、自分の引き出しの少なさが原因である。
読むことに偏りがちな新しい教科書を眺めていても、自分の得意なことでばかり授業を考えがちである。不得手なことで勝負しないという戦略はビジネス的には正しいのかもしれないが、授業で子どもを相手にしていることを考えると……自分がボトルネックになっていいのだろうかといつも不安に思うのである。
だからこその分担なのだろうけど……そう上手くバランス良く連携が出来る環境の方が珍しいのである。