ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

授業が雑になっている

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高3の授業のほぼ総まとめの単元に入るので、さて、どうしたものかと考える。三年前に自分が何をやったのかということを考えると、ずいぶんと今現在が雑なことをやっているという気がしてくるのである。

立場の変化

単純に授業にかけられる時間が少なくなっている。それは色々な仕事をやらなければいけない立場になっているし、授業としてもたんにテキストだけを相手にしているのではなく、ICTなど学習環境が全然違う状態で授業を構想することになっている。

そういう色々な小さな積み重ねが、日々の生活を漫然とさせて、随分と、授業にかける熱量を自分から奪い去ってしまっていると自覚することになる。

やることが複雑になればなるほど、一つのことに出力できることが小さくなっていて、まさに自分が嫌に思っている這いずり回ることをやっているように思うのである。

まっとうに、誰かに見せられるような単元を、説明責任を果たせるような単元を随分と立てていない気がするのである。良くいえば、生徒の状況に合わせて調整しながら授業を回しても崩壊しないだけの見取りと引き出しが出来たとも言えるけど、ちゃんとこちらが高い要求をしてそれを生徒とちゃんとやり遂げるだけの胆力が無くなっているような気がする。

強引さというと聞こえが悪いが、今ある状況だけで満足するのではなく、ちゃんとやりきるという芯の強さ……イマイチである。

コロナの影響が出ている

やはり学校が安定して動いていないと思う。

コロナの影響でいつストップするかが分からないし、生徒も感染予防のために授業を抜けることも少なからずある。

授業に行けば生徒が当たり前にいるので、授業の展開も安定している……という状況とは違うステージに立ってしまっているのだということに気づかされる。自分が当たり前に考えていた単元学習のやり方が、学校に当たり前に人が揃うということを前提としていたことや、教室にいない生徒にはいくらオンラインで繋いでも無力なのだということを思い知らされている。

授業の数も安定しないし、生徒の疲弊感も非常に強い状態が続いていると感じているのである。

授業が成立するための前提条件が多すぎるなと思うのである。

いやいや、大村はまが戦後の焼け野原で授業をやっていたことを考えれば恵まれまくっている(極端な例)のだけど、自分の中にない価値観を新しく模索しなければいけない時期に来ているのだろうなと思う。

授業は安定して回せる。

回しているだけで良いのか?

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