ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

解説の技術

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雨も鬱陶しく、間延びしやすい季節。受験のこともあるので解説する授業も今年は多い。受験よりも大切なことはある……と強弁するのは簡単だけど、ニーズにちゃんと応えないと…と弱腰です。

解説は練習の積み重ね

思うに、分かりやすい解説を伝えるというのは技術である。練習でだいぶマシになることは多い。

エラそうなことを言っていますが、訓練してもなかなか身につかないからいつも苦しむわけですが。

教育実習生が最近まで学校に来ていましたが、同じ内容を伝える授業でもちょっとした立ち振る舞いで伝わり方が全然違うと分かるので、細かい技術を馬鹿にしないできちんと訓練はしておきたい。

自分はもう絶望的に字が下手なので、板書をしたくないのだが、板書をせずに授業する神業の域はまだまだ遠いので、板書をするしかない。

自分の板書を見ていても気分が嫌になるだけなのですが、もう練習、修行だと思って気を遣いながら授業をするしかないのです。

色々なコツはあると教えてもらうのですけどね……上手くなったためしがないのです。

板書の技術一つとっても、授業の雰囲気や印象を変えるのだから、授業というのは本当に難しい。

ルーティンは大切

我々、教員の授業は延々と繰り返される。

だからイベント的に盛り上がれば良いというものではないし、長く関わるからこそ生徒には駄目なところがちゃんと伝わってしまうので、常に授業をブラッシュアップしていかないといけないと思うのである。

技術をブラッシュアップしていくために有効だと感じるのが、授業のルーティンをきちんと決めることである。ちゃんと毎回、同じことを丁寧に繰り返すことで、自分の今日の状態を見極めつつ、状態に合わせてベターな授業を選択する。

また、同じことを繰り返すから、自分の技術がどうのように変化しているかが分かるのである。

声の出し方や立ち位置、あいさつの入り方etc....色々なことを「いつも通り」にすることで、自分の状態を客観的に把握してコントロールしていくのだ。

説明しすぎても伝わらない

一斉授業で一方的に話すというのは技術的には非常に難しい。

よほど対面で個別に語りかける方が簡単である。一方的なコミュニケーションは非常に難しいのだ。

あまり好きな物言いではないのだが、「一斉授業ができなければ協働学習は出来ない」という言説に説得力を与えるのは、一斉授業を出来るくらいに生徒の様子をちゃんと見られるなら、協働学習の時に生徒の支援に回ることがちゃんと出来るからである。生徒の躾の問題ではない。

一方的なコミュニケーションだからこそ、色々と説明しすぎてしまうと息苦しくもなりやすい。

教壇の上で、沈黙して立ち尽くすというのは、かなり精神的にはプレッシャーになる(そういう夢を見て嫌な汗をかいて起きるくらいには嫌なものである)が、ちょっとした間くらいであれば、生徒の気分の転換にはちょうどよいのである。

話すことをそぎ落としていくことも技術だよなぁ……。

地味な繰り返し

良い授業が来されて当たりまえ。少しでも瑕疵があれば責められる。

そういう仕事が教えるということである。

そういう中で我慢強く技術を磨いて、日々の進歩を願うものである。

歳を取れば気力が湧かなくなる。だからこそ、何年も授業を続けても、新しいことをコツコツと謙虚に取り組み、授業を変えようとする人と心から尊敬するのである。

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