ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

本の読み方をちゃんと教えているだろうか

定期的に自分の授業が何を教えているのだろうかと振り返る。3学期のこの時期は「こころ」の読書会を恒例としている。

 

 

読書会形式で授業していると、「読書をする力」のようなものが見えてくる。「力」というとちょっと言い過ぎ、不必要に評価しすぎな感じがするので、もう少し平たく言うのであれば「読書への姿勢」「読書への気持ち」みたいな感じだろうか。

一冊の本を読めるようになること

自分が高校3年間の現代文の授業で生徒が誰一人例外なく出来るようになって欲しいと思っていることは、「自力で一冊の本を読めるようになること」である。

こう書くと、非常にハードルが低く、「そんなんじゃ学力が低くて困る」という批判も聞こえてきそうだ。

もちろん、実際の生徒の様子を見ていると、読む速度や頻度に違いがあるとしても、自分の教えている生徒の多くは、時間さえあるならば自分で読みたい本を手にとって読むことができる。比較的、学力は高い生徒を教えていると言える。

ただ、そのような状況であっても、丁寧に一人一人を見ていくと(身体的な問題や学力的な問題とは全く無関係に*1)本と上手く付き合えない生徒が必ずいる。

国語の授業で「読め」と言われないと自分で本を手に取ることなく過ごしていくという人は少なからずいる。

もちろん、それが考えた上で自分で選んだあり方ならば、それはそれでその判断に自分は口を出すことは出来ない。

ただ、少なくとも高校生くらいまでの段階だと、どのように本と付き合えば良いかということを「知らない」だけということもあるので、本との付き合い方は国語の授業でちゃんと触れる機会を創りたいと思うのである。

だからこそ、個人的には定期的にリーディング・ワークショップを取り組むようには心がけている。本を手に取って読むことを知るには、授業で本を手に取る時間を取る必要があるのだ。

www.s-locarno.com

 

 

リーディング・ワークショップなどをやってみると気づくが、本当に本を苦手だと思う生徒は少なくないのだ。

それをカンファランスなどを通じて、少しずつ解きほぐしていき、どうやったら自分に取って「ちょうどよい」本との付き合い方ができるだろうかというのを粘り強く練習している感じがある。

普通の授業の中で

とはいえ、リーディング・ワークショップを年間通じてやり続けることは、かなり難しい。授業数がシンプルに足りない。そして、その傾向は新学習指導要領で一層顕著になってくる予感がある。

そうなると、一層普段の授業でどのようなことに取り組むか……ということが大切になる。

少なくとも授業で解釈を板書して写させるような授業では、本を手に取るということには全くつながらないだろう。

以下の首藤先生の意見に、自分は賛成である。

note.com

普通の授業が、つまり学校のカリキュラムの中で、他の先生たちとも足並みを揃えながらやっていく日々の授業で、どのようにすれば「本を読む」ということを伝えられるのか、定期的に思い悩むところだ。

一つの方策としては、授業で子どもたちに渡す資料について色々と語ることなのだろうと思う。つい、授業をやっていると単元を終わらせることに夢中になって、なぜその資料があるのか、どうしてその資料に授業者である自分が出会ったのか、そういう本との付き合い方の話をする時間を惜しんでしまう。

どうやって本を探したのか、どうやってその本を読んだのか、どうやってその本を資料にまとめたのか……そういう手の内を伝える時間をちゃんと意識して持つ必要があるのだろうなと思う。

*1:かなりセンシティブなことを書いていると思います。適切な表現か自信がないです。

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