保護者面談の季節である。
保護者と話したいことは一杯ある。「保護者と」が本来の形なのだけど「保護者に」になりがちなのである。
しゃべりすぎの本質は?
自分の面談を振り返ってみると、保護者に対してずっとしゃべっている気がする。20分の間、ほとんどの間、自分がしゃべっているのではないかと思う。
どうしてもこの時期は進学指導のことで話すべき情報が多い。特に今の高校2年生以降は入試自体が変わるので、勘違いすることなく話を伝えておかないといけないのである。
しかし、そうだとしても自分がしゃべり過ぎているような感覚は強い。もっと話を聞くべきなのだろうにという思いはある。とはいえ、伝えるべき事は伝えなければいけないと思っている。
このある意味で板挟みな状況において、自分が「しゃべること」を選択しがちなのは、本質的には「自分が上手く話せるだろう」という過信がある気がする。
ちゃんと言うべきことを言ったので、聞いてほしいことは伝わったという、そういう思い違いがあるような気がする。
自分の言いたいことを言い含めることは、相互の理解とはほど遠い。
そもそも教員と保護者の関係は対等ではない。状況にも依るけれども、基本的には教員の方が強い立場にはあることが多いように思う(学校での子どもの情報は教員が握っているということを考えると)。
そういう状況で、自分の言いたいことだけ伝えようとするのは、一種の脅迫のようなものだよなぁと、自分のしゃべりすぎを反省するのである。
人によりけりだろうけど
保護者面談は教員にとっては大きな仕事である。保護者は千差万別なので、ある程度の基本パターンはあったとしても、最終的には保護者と対面したときに、相手の様子をよく考えて話をしなければいけないのである。接待する必要は無いけど、決して話しにくいという印象を相手に与えることはよいことにはならない。
子どもの姿の見え方は、保護者と教員で当然違う。一人の人間の見え方は、それぞれの立場からすれば全然異なるのが当たり前なのである。
だから、保護者面談で「しゃべりすぎない」で保護者の話を聞くということの本質は「子どものことをよく理解しよう」という謙虚さの表れであるべきなのだろう。だからこそ、なんだか自分が分かった気になってしゃべり続けてしまうことが気持ち悪く感じるのだ。
人のことを分かった気になって仕事をしていると、痛い目に遭う。そういう危機感が何となくある。