ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

今ないことをつくるには

新しいことを始めようと思ったら、結局、自分の来し方や先人たちの記録に戻っていかなければいけないのだろう。

見かけの新しさではなく

新学習指導要領が始まったこともあって、今まで通りの授業ではカリキュラムをこなすという意味でも上手くない。

特に一年間やってみて感じたが「現代の国語」の指導事項や実際に教科書で掲載されている内容については、本当に上手くやらないと授業時間数としても苦しいし、生徒にできるようになってほしいということの数が多い上に複雑化している。

おそらく、一般的な国語の先生になりたかった人のイメージからすれば、かなりかけ離れてきてしまう。

こういう研究も必要になるわけだ。

コロナ以降、色々な場面で授業のあり方は変化している。どこの様子を見ていても、単純にbeforeコロナに戻ったというような感じではない。

ただ、ICTなどが非常に派手に使われるようになって、授業の風景も変わってきたと思う一方で、そういう見た目の派手な変化は、果たして本当に求めていたものだったっけ?という何となく居心地の悪い印象も感じるのである。

授業をこなすことが目的になっていて、本当にそういう学びでよかったんだっけ?と思うのである。

比較的、自分は色々なことにすぐに飛びついて軽佻浮薄にやってしまうタイプではあるのだけど、教育されてきた根幹は「教科教育学」なので、割と保守的な考え方はしてしまうのである。「それってちゃんと子どもの見取りが出来て、学びを構造化して考えていますか」と思ってしまう。

ICTを使えば、確かに発言の量が増えるし視覚化されて分かりやすくなるし、蓄積だって効果的になる。

でも、そうやって量的な変化で何かをやったように満足して、子どもの活動の見取りが雑になっていないかということは非常に疑わしく思っている。これは自戒を込めて言っている。速度が速くなる分だけ、姿を追いかけていくのが大変になっていく。そのめまぐるしさに自覚的だろうか。

根本に戻るしかない

自分が何をやっているのかをしっかりと説明できるようになるためには、自分の実践の位置を確認していくしかない。速度が速くなってくるからこそ、自分の位置がしっかりと分かっているかどうかが重要になる。

走りながら考えるという方向性でも一時期はよいのだけど、それなりに経験を積んできたのであれば、責任を持って自分の実践の足場を考えて、見た目だけの変化にならないようにしたいところ。

今、目の前にある課題を見つめて、今、目の前にない授業や実践を考えようとするのであれば、原理に降りていって、抽象的に考えていくことになるのだろう。

 

 

例えば、こういうで論じられているような抽象的で大きな話を考えるということも大切だろうし、そこから一つ一つの方法についての話を考えていくことも大切だろう。

とても面倒くさくて、まったく授業の変化につながるように見えないかもしれないけど。

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