そういえば、夏の宿題だったと本を読み始める。
この本自体の感想などは、もう少ししっかりと落ち着いて考えたいので、今回は触れない。あまり休日なので頭を稼働させたくない怠惰な気分もあるので、最近、思っていることを簡単に。
ICTで好き勝手ではない
一番、雑な個別最適だという主張として印象に残っている事例は、「パソコン使っているから子どもたちが好きに調べて学ぶから個別最適だ」という話である。
道具を学習者自信が選んで必要に応じて上手く道具としてICTを使うことが個別最適であることには異論はないが、自分の授業設計が雑で何をやらせたいかがわからないような状態で生徒がなんとなくパソコン使って調べているから個別最適と謳うのは……と閉口したことがある。
まあ、ここまで酷い話は流石に例外的な話だと思うが、パソコンを使って自由に調べる時間があるから個別最適だという、そういう雑な話は案外、横行している気もする。そういう授業に限ってヤフー知恵袋などから答えを持ってくるとめちゃめちゃ怒られるイメージが(笑)。
結果的に答えが出ればいいという雑さがある。
結局、何が正しいかは教員が決めるから、とりあえず、答えを探し回って見せればいいという感じ。あまり共感はできないかなと。
手抜きのためにではなく
最近はAIドリルもかなり一般化してきたこともあり、教室の中で理解度や進捗に差があっても、テクノロジーで把握することも増えてきた印象である。
実際、教員が手間を掛けなくても問題を解く能力をAIがある程度の正確さで量的に把握できることができるし、その場でしっかりとフォローアップまでされる機能もある。感覚でなんとなくやっていたことやマンパワーでフォローしていたことが自動化された上に正確さも増しているのだからありがたい話である。
ただ、AIドリルで見取ることができる側面は、教室での学びの一部だ。知識面の見取りにかかる手間が小さくなる分だけ、今までよりも少しだけ多く教室で何が起こっているかを見ようとする、そういう姿勢が必要になるだろう。
ラクできるものはラクしてしまった方がいい。自分が全部の知識を教えるのが仕事だと思うのは非生産的である。
ただ、知識をどれだけ覚えて再現できるかというゲームにならないように。
好き勝手で隣が遠くなる
目的なく好き勝手やっている活動だと、生徒同士の距離が遠くなる。個別を強調しすぎて、本来、教室で学ぶという仕組みの良さを軽く見てしまうと、好き勝手に何かをやる人が座っているだけの空間になる。
コワーキングスペースのような他人行儀さは、教室には要らない。
授業での活動がタスクやノルマになるような、そういう授業設計になっていないかと、自分の授業を見直したいと思うところだ。