ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

ミスを謝れるようになるまで

教員という仕事は常にミスと隣り合わせである。

どれだけ完璧に準備したつもりでも、ヒューマンエラーは防げないし、自分以外のものが予想外の動きをしてしまうこともある。

たとえ、自分に責任がないとしても、自分が責任だけは負わねばならないことは色々な場面である。

特に、学級担任という仕事は「謝ること」が仕事のようなものでもある。

仕事として

「学校の先生」という仕事は、自分に責任がなくても謝るのが仕事だなと思うことが最近は増えた。

担任をしていると、自分のクラスの生徒が迷惑をかければ自分の指導不足だといって謝るし、学校のルールや仕組みで生徒や保護者からクレームが出れば謝る。自分に責任がないということと、自分の仕事として謝らなければならないということは別の話なのである。

ある意味で、相手の気持ちに対しての受容だとか理解を示すということであり、相手との関係を作って、その後、対話を進めていくというのは、教員の重要な仕事だ。

だから、自分の非がないとしても、しっかりと謝れるということは、教員の重要な仕事なのだ。

謝るからといって、自分が何でもかんでも悪者になって責任を背負い込むという話でもない。相手に対して敬意を持って受け止める態度を謝罪で示しつつも、事実として何が問題なのかは話を進めていく。

そういう仕事をしているのだ。

だいたいミスをする

ただ、残念ながら、今の学校の仕事は一人の教員が抱えている仕事があまりに多すぎるから、どれほど周到に準備しても必ず1年に何度かはヒューマンエラーが起こる。残念ながら、自分の失敗として本当に嫌な気持ちになって、謝らなければいけない場面がやってくる。

相手にミスをされたら自分も怒るし、厳しく当たらざる得ない場面もあるのだけど、逆に自分がミスをして厳しく叱責されることもある。正直、今抱えている仕事の量を考えると、理不尽な感じがしてしまうのだけど、それでも仕事は仕事として自分が責任を負っている。

そういう時には素直に謝るしかない。そして、助けてもらうしかない。

余裕のない中で仕事をしているので、ミスを指摘されたら腹も立つし、反論もしたくなる。しかし、それをやってしまったら、学校という職場は致命的に厳しい。

お互いに「ミスは防げない」ということは分かっている。だからこそ、一瞬、ミスに対して厳しいことを言われたり言ったりすることはあるかもしれないが、ちゃんと謝罪が出来れば、お互いにそれ以上は叱責しないものである。ミスが起こるのは確率の問題でもあるから。

でも、だいたい、嫌なミスほど謝れないものである。

自分が頑張っていると思っているときほど、謝ることは難しい。

自分と仕事を切り離す

ミスを認められないのは、自分に自信が持てないことやミスで居場所がなくなるという不安感が原因である場合が多い。自分のこれまでの積み重ねが、ミスで否定されるかもしれないという不安があれば、ミスじゃないと言い張りたくなる。

ただ、自分を守ろうとすればするほど、自分の立場は悪くなる。

教員と生徒が対立した場面で、教員に非があるのに謝罪がすぐに出てこないのだとしたら、最悪のケースは裁判沙汰である。裁判にならないとしても、大人が子どもに対して屈服させるような謝罪の拒否は、生徒との関係を壊滅させる。

さっさと謝って済む問題は謝った方が良い。

謝ることは人格が否定されるわけではない。仕事として請け負っていて、一定確率でエラーが出るのは仕方ないし、謝ることはエラーを修正する手続きに過ぎない。自分の人格や立場への評価ではない。

ただ、やっぱり自分に実績の無い若い頃は謝れないよなと思う。仕事が自分の気持ちや人格とは離れたところで動いているのだということを学ばなければいけない。

また、謝ることが上手くなることが、仕事を上手に進めることにつながるという実感も必要なのだろう。

Copyright © 2023 ならずものになろう All rights reserved.