ゆる言語学ラジオが古文文法特集だった。
自分は日本語学が専門なのでこういう話題は楽しい。授業のネタとしても話すこともあって愉快に見ていられる。
ただ、コンテンツの面白さとは別の観点で「じゃあ、授業をどうしよう?」と思ったときに難しさを感じる。
※授業準備の一番のお供はちなみにコレ。
国語の授業は面白い話は出来るけど…
国語の授業をただ教科書を読んで、平板に解釈を教えるような授業をする人は少ない(と思いたい)。
自分なりに工夫をして、できるだけ面白く知識を伝える工夫はするし、生徒が飽きないように話し方を工夫したりする。
どうせ読んだり書いたりするならば、面白いものを学んでほしいと思うのである。だから、冒頭に紹介したゆる言語学ラジオのような話を一生懸命探してきて、話してみるような工夫を何度も試行錯誤してきた、そういうことが身に覚えがある人は少なからずいるはず。
そういう悪戦苦闘が自分の授業力を上げることにつながるので必要な努力だろうと思う。
ただ、面白いコンテンツを見つけてきて、生徒の気を惹くような授業構成は続けることは難しいだろうと思う。
一つがシンプルに現場が忙しいということ。また、高校までの教員が扱わなければいけない事柄は多岐にわたるため、一つのコンテンツを練り上げるだけの専門性を磨くことは難しい。エセ専門家になったら、やはりそれは職業倫理的によくないと感じ。
高校までの教員は一回だけではなく、毎日、毎日授業がある。その頻度で授業を回しているのに、プロが考え抜いたコンテンツと並んでいこうというのは……まあ、厳しい。
授業の専門家として
我々教員の専門性とはなんだろうか。
できる限りの努力で専門性は磨く。面白い伝え方が出来る努力もする。
でも、それだけが専門性ではないはず。
むしろ、そこでの勝負の物理的な限界が割とデカい分だけ、もっと地に足のついた専門性はあるのではないかと思いたい。
仮にそれが何かと自分なりに述べるのであれば、それは、やはり生徒を見取る力と、そこから長期的なカリキュラムを考えて、長い距離を伴走する力なのだろうと思う。
今日の授業出来なかったとしても、半年後にはできるようになるかもしれない。そういうことを信じるだけの根拠と自信を持っていることなのだろうと思いたい。
一つ一つのコンテンツの磨き込みがその道のプロには敵わないとしても、様々なコンテンツがどのように生徒の変容につながって、どのように組み立てていけば、今よりもよりよい方向に進めるのか、そういう未来への一歩を堅実に選べるように、今、目の前にいる子どもから見出すことができること……そういうことを専門性だと思いたい。
難しく言えばPCKみたいな話なのだろうけど、そこまで言わなくても、もっと肌感覚で、現場にいるからこそ持っている経験値。
そういうものをちゃんと勘にしないで磨き込んでいくことも必要なのだろうな。