ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

ちょっとしたことの積み重ね

人を相手にする仕事が教育という仕事である。

だからこそ小さなことであるけど、その所作の一つ一つの積み重ねが意外と大きな変化をもたらすので、最近は気になっている。

よい先生はよく見ている

自分がこれまでに出会った素晴らしい先生というのは、子どもの姿をよく見ている。また、子どもを世界で一番気にかけている保護者のこともよく見ているのである。

だから、ちょっとしたイレギュラーな行動があれば、すぐに気付いてアクションをするし、相手が欲しいだろうなと思うアクションをびっくりするくらい的確に行うのである。

相手に何かを言わせることなく、こちらから察することによって摩擦なく、必要なことを手助けしていく姿がある。そういう先生はやはり圧倒的に授業も魅力的である。

よい授業の根幹とは何だろうと考えると、とことん子どもたちの現実の生活を見ることなのだろうと思わされるのは、そういう経験を積み重ねてきたからである。

良い先生の持つ、気付く力というものは強烈なのだ。

ちょっとしたことに鈍感であると

逆に、最近は「それに気付かないのか」ということを目撃することが増えている。それは自分が中堅くらいの年齢になって、色々な経験値を持つようになってきたからこその気づきだとは思う。だから、若手の先生が「そういうことをやるか…」ということを責めるつもりはないけれど、ただ、そういう一種の「やらかし」に対してはシビアに感じるようになってきている。

いや、厳密に言うならば、確率的には若手の先生が経験の少なさから気付かないことは多いのだろうとは実感されるが、実際はあまり年齢や職歴は関係ない。人への対応に鈍感な人はどんなに自分が経験を重ねても驚くほどに無神経で鈍感だ。若手のやらかしには仕方ないと思っても、そこそこ経験があるのに無神経なのは割と見ていてイライラとするかもしれない(笑)。

怪我をしている相手にちょっとした手助け、浮かない顔をしている生徒へちょっとした声かけ、何かを返却するときのちょっとした心遣い……そういう場面での積み重ねている行為の結果はかなり大きな差を生み出すのである。

気付かないでいることはとても損だ。そして、それは取り繕うことができるようなものでもない。割と価値観と直結してしまっている。

丁寧に行動する来年に

自分の行動を圧迫するほど色々なことに細かく気を遣う必要は無いと思うが、ちょっとした気づきを重ねることを大切にしたい。

逆に言えば、そういうちょっとした気づきを見つける力が弱くなってきたら、自分は教員として続けるのは危ういかもしれない。もともと、教員に向いているとは思わない。かろうじて気をつけることが出来ている間に、仕事として成り立たせていることができるような気がする。それでもだいぶ蔑ろにしていることがあるように反省している。

もっと丁寧な毎日を。

一つでも、二つでも、何か相手を察することが出来るようになることを心がけて行きたいのだ。

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