ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

授業をつくるために

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若手の先生の研究授業を見学するなどする年度末。

外に出かけていき、授業を見学する機会がコロナの影響で壊滅しているので、他の人の授業を見るのは面白いものである。

中堅となった自分が何を伝えるか

自分の授業のことばかり考えていればよかった若手時代などとうに過ぎ、すっかり中堅というべき年齢と勤務年数になった。自分の授業は安定して出来るようになってきたけど、じゃあ続々と入ってくる若手がちゃんと育つかどうかということを考えなければいけない世代になったと思う。

なかなか授業を見るということは難しい。

教員養成課程出身なので入学した時期から大学院を出るまで何度も現場で授業を見て、検討会などにも参加してきたけど、未だに授業に授業の見方は難しい。

以前に、『教育科学国語教育』にこんな特集があったけど、端的にまとまっていて勉強になったのを思い出して読み直すなどする。

まあ…国語科と他教科では事情が全く違うことがあるかもしれないが、授業観として共通するものはあるんじゃないかと思う。勘所というか見立てというか。

石井先生の本の内容が教科問わずに役に立つように。

でも、デザインが分かることと授業が見えることには差があるなぁと難しさを感じる。

授業を見られるようになるには、たくさん授業を見るしかない。その意味では授業を見に行く機会が限られてしまっているコロナ禍という状況は生徒にも厳しいが若手の先生にも厳しい。

若手で仕事を免除されているうちに色々な授業を知ることが出来た自分は恵まれていたと思うのだ。

当たり前のことを地道に

何だか共通テストを含めて、日常生活に根ざしたことが大切だと言われるようになっているので、つい日常的な例を挙げて授業をすればよい、みたいなことになりがちなのだけど、本質はそういうことなのだろうかという疑問はある。

生徒の日常生活や見聞きしているものの実態をきちんと普段から観察し、どういう素材と指示を渡せば生徒が自分で力強く学んでくれるのか、そういうことを考えることと、ただ日常のことを放り込むというのは、表面的にやっていることが似ているようで、全く違いがある。

じゃあ、何が子どもたちの思考を刺激して、そして深い学びに繋がるのかと言えば、徹底的に授業について何度も吟味するしかない。それは扱う題材についての理解もそうだし、日常の子どもたちの姿を理解することもそうだ。

その時に心強いのが間違いなく先行研究である。先人達が積み重ねてきたものを丁寧に紐解いていけば、自分のやりたいことが描き出されている実践がどこかにあるものである。

自分のやっていることを、自分のやりたいことを自由にやれていると思えるようになる日はくるのだろうか。

自分の実践は常に誰か先達の歩いた道を覚束なく歩き続けているだけのようなものだと思う。

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