定期的に沸いてくる事実誤認のいい加減な記事。
こんないい加減な記事で現場を叩かれたら堪ったものではない。真面目に授業を考えている人にとって嫌がらせのようなものである。
一行目からおかしい
記事の一行目から既におかしい。
実用的な力の向上を目指す国の方針により、高校の国語教育が極端な方向へ向かおうとしている。
(https://toyokeizai.net/articles/-/636580より。2022年12月5日19:05確認)
何を根拠にこのように断言を行うのか。
少なくとも、「国の方針」ということであれば、学習指導要領の文言に当たるべきである。高等学校学習指導要領国語編に書かれている、国語科の目標は以下の通りである。
言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で的確に理解し効果的に
表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
(1) 生涯にわたる社会生活に必要な国語について,その特質を理解し適切に使うことができるようにする。
(2) 生涯にわたる社会生活における他者との関わりの中で伝え合う力を高め,思考力や想像力を伸ばす。
(3) 言葉のもつ価値への認識を深めるとともに,言語感覚を磨き,我が国の言語文化の担い手としての自覚をもち,生涯にわたり国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う。(【国語編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説より)
まあ、学習指導要領の文言がどこまで実態に即しているかという問題はあるのだけど、ただ「国の方針」と公にいうのであれば、その根拠を示すべきだろう。
まさか全ての高校生のうち、半分しか受験をしない大学入学共通テストの試行問題だけを根拠に高校の国語の授業の全てを語るような雑なことをしようとしているのだろうか?
確かに実用的な文章の出題の割合は増えているし、教科書にもその存在感はかなり大きなものになってきているのだが、そのことが極端に批判される根拠はやはり乏しい。
入試問題の是非はあるけど
こんな記述もある。同じ現場の教員としては個人的には一番対立するタイプの言説である。
都立のある進学校の国語科教員は、試作問題を見てため息をつく。「難問ではなく、うちの生徒なら解けるだろう。ただ問われるのはデータ拾いの速さで、これを国語のテストに入れる必要はあるだろうか」。
(https://toyokeizai.net/articles/-/636580より。2022年12月5日19:05確認)
共通テスト型の問題が「情報処理速度」、「データを拾うことの速さを競う」などの傾向にあることは、数年前から繰り返し指摘されてきていることである。
今年に出た「試作問題」で今更、新しいことのように言うのは周回遅れ感がある。
共通テストとして、適切な出題と言えるのかどうかという議論はずっと付きまとっている話であり、今後も議論されていくことになるだろうと思う。
個人的には「好き勝手なことやりすぎた高校の教育へのレッドカード」として共通テストが意固地になって極端なカタチになっているのだと感じているが、共通テストの話と日常の授業の話は別の話である。
別の都立中堅校の国語科教員は「文部科学省が持っていきたい方向はこっちなんだな、とよくわかった。訓練をして、点を取れるようにするしかない」と語る。
(https://toyokeizai.net/articles/-/636580より。2022年12月5日19:05確認)
このようなことをいう教員は自分の授業にプライドがないのかな?と思う。自分の授業で何をやるかは、共通テストで点数を取れるように訓練することで決められるものではないはずである。何でも文科省のせいにして、自分の授業を積極的に変えていこうという姿勢の見られない教員は何が楽しくて授業をしているのだろう…?
こんな教員は存在せず、記者の創作であることを願います。
事実誤認
https://toyokeizai.net/articles/-/636580?page=2に記載されている「「実用重視」で、文学を学ぶ時間が減少」という図表については、明らかな事実誤認である。
従来の学習指導要領は「現代文2単位」「古文1単位」「漢文1単位」などという区分けでは行われていない。「国語総合」という科目の性格を考えても、こんないい加減な分解の仕方はとても学習指導要領を読んで取材をしたとは思えない雑な議論だし、本来、授業数は「領域」ごとに指示があるので、そちらで考える方が適切である。
なお、国語総合と現行の学習指導要領の授業数の差は、以下の過去ログで詳しく書いている。
また、「内容過多で小説が後回しに」などと記述されているが、これも上の記事で指摘しているように、学習指導要領上では「文学素材」を扱う時間数自体にはほとんど差が無いのである。単に小説を扱う時間が減る、扱いにくくなっているというのは、そもそも学習指導要領で規定されている領域ごとの授業数を軽視し、「読むこと」に偏重した授業を行っていただけである。
「話すこと・聞くこと」、「書くこと」に対して「文学」だけを特別視せよという議論は成り立たないだろう。
無論、現実には時間数は厳しい。2単位科目になると授業が行事などで潰れると二週間くらい授業がない…みたいなことが平気で起こる。2単位科目は厄介だよ…という気持ちはあるのだが、ただ、それと「文学の授業数が足りない」「後回しにされる」というのは別の問題である。
何度も言っているが「漫然と読むことに偏重してきた現場へのレッドカート」という性格が今回の学習指導要領には感じられる。
前出の中堅校教員は言う。「入試で出る古文の基礎的な内容は、高1のうちに詰め込む必要がある。漢文もある程度は押さえるべきだ。するとどうしても、小説をやる時間がない」。高1なら、これまで芥川龍之介の『羅生門』などをじっくり学習してきたが、今は短時間で済まさざるをえない。
(https://toyokeizai.net/articles/-/636580より。2022年12月5日19:05確認)
入試、入試と言って、古典嫌いを増やしてきたことや「じっくり学習」したことで、何をやってこなかったのかという視点もない。
「じっくりと」文学をやることが重要だというのであれば、入試を言い訳にせずに、自分の責任でやればいいのである(もちろん、領域ごとのバランスも考えつつ)。
入試を言い訳に、「あれができない」「こんなのはおかしい」というのは大人げない。
いつもの人からのコメント
国語教育に詳しいのか?研究者として国語教育が専門でないのに?それはともかく。コメントも紹介しておく。
「ただ、試作問題を見ても言葉と情報を混同しており、言葉に対するデリカシーが欠けている」というコメントは、この記事からだけでは何を言っているか不明です。
高校の現場の授業は言葉遊びだけを言われても困るのである。
あと、高校の教員の立場からくさすならば、私立大学の入試問題が高校の授業にあまり良い影響を与えていないですよとは強く言っておきたい。
結論はその通りだけど
この記事の結びは以下のようなものになっている。
国は国語科に、AI(人工知能)の発達など予測困難で複雑な社会に主体的に関われる力の育成を求める。だが、その力が本当に培える教育とは何か、いま一度問われるべきだ。
(https://toyokeizai.net/articles/-/636580より。2022年12月5日19:05確認)
この一文を読むと、学習指導要領の解説編に目を通しているっぽいのだよな……なら、どうして前半のでたらめな記述になるのだろうか?
そして、何が大切なのかを問い直していくこと自体には異論はない。
ただ、「予測困難で複雑な社会に主体的に関われる力」として、今後も学習指導要領などの「実用」的な文章をよく読んで、主体的に「情報」を「正確に読み取り」、資料を組み合わせて、正しい文章を書く力は大切になると思うのですよ。
全然議論として筋の通らない内容で世の中を煽るような文章を批判するためにも。