色々な仕事が立て込んでいて読むのが後回しになっていたけど、今月の明治図書『国語教育』に目を通す。
「ちょこっと支援」というタイトルの通り、日常に存在しているのだけど気付かなければ素通りをしてしまうような、そういう困り感に対する提案が述べられている。
多くのことを見逃している
今回の特集で紹介されている提案は、どれも大がかりな方法ではない。「ちょこっと支援」というタイトルの通り、いずれも一手間を準備するだけで困っている子どもたちにとってはかなり大きく助けになるような提案である。
逆説的な言い方をするならば、自分がどれだけ子どもの困り感を見落としている可能性があるのだろうと考えるきっかけになる。
どうしても50分という授業の枠組みの中で「やらなければいけないこと」が念頭にあると、それぞれの生徒のちょっとした困りごとに対して鈍感になってしまう気がする。
いや、鈍感になるのであれば「そこに問題がある」という認識自体が出来ているのだからまだマシなのだ。
実際にはそこに「困っている子どもがいるかもしれない」ということが、そもそも頭の中にない可能性があると気付かされる。
大仰に個別最適な授業なんていう必要は無く、もっと手前の、根本的なところに、どういう困り感があるのかということを想像する力と視点、そういうものが欠けていないかと自問自答するのである。
自分が同じテーマで何か提案を書けるだろうかと思うと、すぐにアイデアが出てこない。それは、つまり当たり前に授業を一方的にやれば成立すると自分が素朴に信じているからに他ならない。ちょっと傲慢な思いこみをしている気がして、反省しなければいけないという気分がする。
授業の手詰まり感の原因かも
こういう視点を提供されると、自分の授業がイマイチ手詰まりである感じの原因がこういう側面にあるのかもしれないと思う。
授業の題材や手法はバリエーションに富んでいても、どうしても取りこぼすものがあると感じている原因は、こういう「ちょこっと支援」が必要になるような場面を見過ごしてきていることによるのかもしれない。
高校の教員はある意味で非常に楽だ(高校と言ってもかなり差が大きいので、ここでは普通科の進学校を想定していると思ってもらっていい)。学習規律は既に教えられてきている生徒がほとんどだし、大人の言葉をそのまま使っても生徒に言葉は通じる。今の入試制度上、学力的にもかなり均質性が高く、授業を進めるにはかなり準備が整えられている。
だからこそ、丁寧に何かを見取ることが雑になっていないか。
そういうことを考えるのである。