ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

もっと高校国語科のあれこれ

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ここ数日の続きです。

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「国語表現」についてもう少し話してみましょう。

「国語表現」は素材を広く使えるかも?

個人的に、「国語表現」を特に注目したい理由の一つが、授業で扱える素材の広さがあるかもしれないと感じるからだ。特に、「論理国語」「文学国語」と明確に分けられてしまったことからすると、「国語表現」が面白くならないかということが気になるのである。

「論理国語」の学習指導要領解説編などには、「現代の国語」と同様に明確に「文学の素材は対象としない」と捉えられる内容が書かれている。

例えば

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平成30年改訂の高等学校学習指導要領に関するQ&A(国語に関すること)2021/09/16確認

今回の「現代の国語」の教科書で明確に文学の素材にノーが出された以上は、これから出てくる「論理国語」にも抜け道は無いだろうと思う。

しかしながら、「国語表現」にはこのような明確な「実用文のみ」というような縛りの文言は書かれていないのである。もちろん、内容としては解説の文言に「実社会の」ということが繰り返し見られるので、意図としては「実用的な国語」が強調されているのとは感じるが、一方で、教材の取り扱いについて、「文章の形式については、必要に応じてとしていることから、指導のねらい、生徒の興味・関心、指導の段階や時期などに配慮し、親しみやすく、効果的なものを用いることが大切である」(【国語編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 P.244)とあるように、自由度もあるように感じるのだ。

だから、文学も授業で扱いたい(文学を教えたいではない)ということであれば、「国語表現」の授業の可能性は大いにあると感じられるのだ。

何だか、とんちみたいなことを言っているのだが、必要以上に教員が授業を作るときにお上のことを忖度して、自己検閲をする必要など無いのだ。

「国語表現」と文学素材の実践例はある

実際、これまでの「国語表現」の実践や、「国語表現」の実践の参考になりそうな提案の中に、文学の素材を効果的に用いているものは少なからずあるのだ。

たとえば、「国語表現」の実践例としては昨日も紹介しているが『自己をひらく表現指導』は「国語表現」の実践集であり、かなりの実践に文学の素材が登場している。

※当ブログが9月5日紹介してからなぜか値段が高騰している……。

また、これも当ブログで何度も紹介しているが、作文指導のこの本

古代ローマの作文教育の手法である「プロギュムナスマタ」を現代の教室向けに作り替えた実践提案であるが、この「レトリック」の学習が、まさに文学活用の宝庫なのである。

第一学習社をかばうわけではないが、こういう例があるのだから「羅生門」などの文学教材の掲載についても、「現代の国語」で扱いうる可能性自体はあったと思うし、教員が現場の工夫として活かす道はあったと思う。

しかしながら、どうも、第一学習社の学習のてびきは現場からも研究者からも、文学研究界隈からも評判は悪いこともあり……なかなか色々な価値観が対立しているように感じるのである。

『日本語文章・文体・表現事典』はかなり参考になるはず。

実はこの事典は授業づくりでもかなりネタ帳として役に立つ一冊なのだが、こういう事典に詳述されている技術を掘り下げるという授業をしてみたい気持ちもある。それは自分が日本語学分野を中心に学んできたからということもあるし、ジャンルを縛られることやそれをめぐる対立の目立つ、その他の教科に少し食傷気味であることもあるので余計に「国語表現」が気になってくるのである。

なぜ「国語表現」を選ばないのか

「受験」ということが大きいだろう。

しかし、「受験」を理由に「文学国語」が選べなくなることが炎上するのに、「国語表現」が「受験」を理由に選ばれないできたことには相変わらず見向きもされないのである。「国語表現」が「論理国語」や「文学国語」よりも一段レベルの低いことをやっているかのように思われているとしたら、それはあまりに勝手なイメージだろう。

夏目漱石を教えたいのか、「こころ」を教えたいのか、受験指導したいのか、国語の力を育てたいのかがなかなかはっきりとしない。意地悪な言い方をすれば、文学の定番教材は教える側がラクをしようとすれば、どこまでもラクを出来てしまうのである。本気で文学を大切だと思っている人が、高度に工夫して教える授業は素敵なものになる可能性は高いだろう。しかし、教える都合で文学を必要としている人がいるのは否定できないように思う。色々な理由があるにせよ、様々なものが変わっていく時代において、授業の工夫や改善をしていかないことはあまり望ましいとは思わない。

その時に自分個人としては「読むこと」一辺倒であることや、あまりにコンテンツの解説にのみ偏った授業の時間の使い方では、生徒に教えるべきこととしては不足が多いのではないかと考えるのである。

とはいえ、高校は決して社会や大学の教育の下請けではないので、ああしろ、こうしろという要求で授業が縛られる必要は無いとは思う。

生徒達の先達として様々な言語の体験を持っている国語科の教員が、自分の経験や社会の実情に照らして今の生徒達に必要な力を考えたときに、必要なことをきちんと指導するべきだろうと思うのである。

必要以上に、扱う素材についてかたくなになる必要は無いが、今までと同じことでやり過ごそうというのは不誠実だろうと、そんなことを思うのである。

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