悩む生徒と長い時間だいぶ話した。
生徒が悩む原因がどこにあるのかを解きほぐしていくと、大人の責任は重いなぁと思うのである。自戒を込めて。
教えると教えられるの関係
学校という場所は、知識や技術を伝達する場であるので、どれほど形態を変更したとしても、基本的には大人が教えて、子どもは教えられる立場にある。学び方や学ぶ過程はいくらでも可能性はあると思うが、大人から子どもへきちんと伝えるべきことは伝えなければならないし、子どもの成長のために大人の役割がある。
子どもから教えられるということは、教員の矜恃を示すためにレトリックとして用いられてもよいが、基本的には教えるために教員はいる。何をどう教えるかは工夫があるべきだし、教えるからといって必ずしも一斉授業をすることは意味しない。むしろ、一斉授業しか選択肢を与えないなら、それは随分、あんまりだろう。
まあ、何はともあれ、大人が教え、子どもが教えられるという形は基本的な枠組みである。
上下関係なのか…?
「教える/教えられる」という関係はあっても、それがそのまま「上下関係」として無条件に常に学校の中で固定化されるというのはやや違うだろうなあと思う。
もちろん「教える/教えられる」という関係がある以上は、教えられる側である子どもは教えてくれる人に対して、どういう態度を取った方が良いかということは、一つの価値の基準として教えた方が良いとは思う。まあ、回りくどい言い方をしているけど、基本的には、自分の成長を助けてくれる人には、教えてくれる人のことはありがたく思った方が色々と助かるはずだ。
教える側も、教えられる側が言うことを聞くべきだと、尊大に思うのも、まあ、筋が悪いだろう。
上下関係を前提として、相手を見ないで「これが当然」という風に考えることは、健全ではない。
上下関係を守りたいのか…?
ただ、残念ながら「子どもは逆らうな」という価値観の人はいるんだなぁと感じることがある。それは、明らかに教員に非があるのに、子どもに謝れないというケースを見聞きするから感じるのである。
そして、だいたい「大人に謝ってもらえなかった」という経験は、子どもにとってはトラウマである。しなくてもよい我慢をさせられるという経験であり、色々な形で嫌な記憶として残るのである。
そういう話を何度も聞くのだけど、その度ごとに思うのである。謝らないことで一体、何を守ろうとしているのだろうかと。
謝って解決できることよりも、謝らないでこじれさせても守りたいものってなんだろう?
それって本当に大切ですか?と思うのである。